名古屋城下の御土居下に忍術を使いこなす侍が住んでいた。
藩主に一大事の時に鶉口を通り、木曽街道を抜け、瀬戸の定光寺まで護衛にあたるサムライ達だ。
そのサムライたちの中で最も忍術に優れていたのが広田増右衛門だと言われている。
目次
広田家忍術とは
広田家はもともと徳川義直直参の家柄であった。
義直公は徳川家康九男であり、御三家筆頭の尾張藩初代藩主でもある。
そんな広田家に忍術を伝えたのが伊賀流忍術の心得をもつ吉川宗兵衛である。
吉川宗兵衛はもともと尾張藩の者ではなかった。
なぜ尾張藩にやってきたかなどの詳細は明らかではない。
その吉川宗兵衛に忍術の手ほどきを受けたのが、広田増右衛門の父であった。その父の教えを受けた広田増右衛門はみるみるその才能を発揮していった。
運動神経が人並みはずれて優れていたこともあるが、特に奇異な特徴は自由自在に関節を外すことができたということだ。
細くて狭い隙間などに頭が入ればあとは、肩の関節や手足の関節を自ら外して忍び込み、楽々と通過するという技を会得していた。
広田流忍術の技
広田流忍術の最大の特徴は石垣の登坂能力にある。
名古屋城は築城名手である加藤清正が築いた石垣に護られている。上に登るほど反りかえる武者返しといわれる石垣が特徴となり、容易に登ることができない構造となっている。この手法は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に清正が朝鮮に多く見られる眼鏡橋に利用されている築石方法から編み出されたものといわれている。
しかしその手法は秘伝となっていて、名古屋城石垣の築石の際も幕で覆われて決して他の大名に知られないよう最新の注意が払われていたということである。
そんな石垣も軽々と登る技とはどのようなものであったのであろうか。
お許しがでるのならば、天守閣にそびえる金鯱まで足場なしでも登ることができると豪語していたほどだ。
広田家流石垣登り
広田家流石垣登りの秘術は鉤縄(かぎなわ)にあった。
鉤縄とは先端に錨のついたロープであり、忍者七つ道具に数えられる中世の忍者が好んで使った道具である。
その鉤縄を壁や崖、あるいは石垣に投げつけ錨状の鉤爪をひっかけ斜面を登るというものだ。
しかし広田家忍術には鉤縄以外にも特筆すべき技があった。
それは腰に結んだ帯が広田家の秘伝の帯であった。広田家の帯には鉤爪がつけてあり、手足で石垣を掴み、さらに腰の帯についた鉤爪を石垣の隙間に引っ掛けて登るという技だ。
この技により、手足が自由に使うことができる。さらに手足プラス腰の爪により5点で石垣に密着することができ、逆反りの石垣も軽々と登ることができたという。
広田家流水遁の術
広田家には石垣登りのほかに水遁の術も伝わっている。
実際に潜水の実演は庄内川で行われた。水遁の術というと、竹筒を水面に出して息をしながら水中を移動するということは今では有名すぎて皆が知っていると思う。
しかし当時は忍者の技を庶民が知るわけもなく、水中に消えた広田増右衛門がいつまで経っても姿をあらわさない。しかもはるか川上から悠然と歩いてくる姿に城下のものは驚いたという。
種明かしは一尺(0.33m)ほどの竹筒で息をしていただけだが、当時は現代のように情報が流れていないので皆が不思議がってたいそう話題になったそうだ。
その後の広田家
広田増右衛門は生涯独身を貫いた。そのため後継者がなく寛政12年(1800年)65才にて没した。そして御土居下同心組の掟により広田家は絶家となった。
増右衛門は忍術の秘伝を藩中の者はもちろん、御土居下の者にも決して教えなかった。広田流忍術は増右衛門とともに尾張から消えてしまったという。
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