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名古屋城のお堀
名古屋城のお堀は本丸の北側と西側が水堀、南側と東側が空堀となっているのが特徴。南側には武家屋敷が立ち並び、本町通りを通り熱田神宮まで城下町が続いていた。
北側にある水堀は仮想敵は北から攻めてくると想定して名古屋城が造られたことを物語っている。
敵を防ぐためのお堀ではあるが、水が干上がってしまっては意味がない。しかし江戸時代に築城されてから今日までどんなに猛暑だろうとお堀の水が干上がってしまったことはない。
お堀と堀川
名古屋城のお堀の近くには堀川という人工の河川が流れている。これは物流のためでもあるが、城の北西部の防御の役割も担っていた。
名古屋市西区樋ノ口町にある辰ノ口水道跡にはお堀と堀川が繋がっていた遺構が残る。
また他にもお堀の北西角にも堀川と繋がる取水口があり堀川と繋がっている。
しかし名古屋城のお堀と堀川の水位を比べてみると、実はお堀の水位のほうが高いのだ。実際に絶えず堀川にお堀の水が注ぎこまれている。
堀川に注ぐほどお堀の水は絶えず満水状態を保っているということである。
ではお堀の水はどこからやってくるのか?
お堀の水源調査
この水源の調査を江戸時代に行った人物がいる。
尾張藩10代藩主である徳川斉朝による勅命により森島左兵衛という人物がお堀に潜り隅から隅まで調査を行ったという記録が『御土居下雑記』に残されている。
名古屋城の防御網の最たるものは『お濠』であるともいえる。お堀の深さや水底の状態などは軍事機密でもあり、敵には決して知られてはならない秘密でもある。
徳川斉朝と新御殿
徳川斉朝といえば名古屋城内の本丸御殿ではなく、名古屋城外に新御殿という住居を構えていたことで知られる。その場所は名古屋城天守閣のすぐ北側に位置する金城村(現在の名古屋市西区堀端町)であった。残念ながら現在の堀端町には当時の新御殿の遺構は残されていないが、現在の名城公園は当時は名古屋城の庭園であったことを考えると大変大きな規模の邸宅であったと想像できる。
森島左兵衛の調査
森島左兵衛とはどんな人物だったのか?森島家といえば尾張藩御土居下衆のうちのひとつである。
御土居下の武家屋敷にはあらゆる分野の達人たちが一子相伝で藩主を守る任務を遂行するために暮らしていた。
森島家の一族は水泳及び忍術に長けていたという。いわゆる忍者の一族であったと思われる。
森島左兵衛は森島家8代目の人物であり幼少の頃から水中で魚を捕まえてみせるなど、泳ぎは特に達者であった。
徳川斉朝の勅命
文政8年(1825)9月に斉朝の勅命により築城以来初めてお濠に潜っての調査が始まった。この調査の結果は何も記録が残されていない。お濠の内部の状態は軍事機密でもあるので調査自体も藩主斉朝がお堀に群生する菱の実を採取する様を新御殿から鑑賞するというふれ込みで行われていた。いわゆるお忍びの極秘命令であった。
森島左兵衛が潜ったことを『御土居下雑記』に残されているのみである。
この調査は1ヶ月に渡り行われた。過酷な潜水調査を続けた森島左兵衛は潜水調査中に落命寸前で命を取り留めたほどであり、調査終了後には潜水病にかかり引きこもってしまい静養に6ヶ月かかったという。
森島左兵衛の証言
森島左兵衛は晩年に隠居の身になって初めてお濠内部の様子を御土居下組員にのみ語ったという。
それによるとお濠の深さは一定せず浅い場所と非常に深い場所とがあって、深い場所は水中は暗く充分な視界はない。お濠の底の水は非常に冷たく、水は下より上に昇るように流れができていてまるで泉のようでもある。なので深い場所では底を極めることはできない。お濠の水中には一定方向の流れがある。また浅い場所には樹木が倒れたのが水底に横たわり、その間に泥がたまり足を踏み入れれば泥が深く、体まで泥に埋もれてしまい危険この上ないと語ったそうだ。
名古屋城お堀の水底
名古屋城のお堀の形状は箱堀となっているが、敵から攻められにくくする為に重要なポイントは箱堀の底を更に薬研堀としている。
箱堀の底を更に深く薬研堀としているほどの重要な場所は名古屋城には3ヶ所ある。
- 御深井大濠、すなわち西之丸の月見櫓の下一帯、ならびに月見櫓の北部の入り組んだ濠周辺
- 御深井丸の西北隅櫓の真下一帯
- 御城東北隅、階段より対岸に至る、すなわち御深井御庭に渡る一帯の濠
以上の3ヶ所は箱堀の底を更に薬研堀で掘り下げた場所である。
薬研堀とは
薬研堀(やけんぼり)とは堀の底をV字に掘り下げてある形状のことをいい、敵が侵入しにくくする工夫である。
薬研堀の深さ
通常の箱堀の底までの深さが森島左兵衛の調査では21尺、メートル換算では6.4mである。明治年間にはさらに堆積物などで浅くなってしまって現在では13尺(4m)と言われている。
薬研堀のあるところは通常の箱堀の底から更に深く掘り下げてある。3ヶ所の薬研堀はそこから更に24尺(7.3m)も深くなっている。
江戸時代の森島左兵衛の潜水調査でも御深井大濠一帯と階段一帯の薬研堀は底部を極めることが困難であった。
森島も『薬研堀の中は泥の中にあるに等しく視界は悪しくかつ冷水が噴出している』と述べている。
お堀の水源
このようにお堀の水が枯れないのは薬研堀の底から泉のようにこんこんと湧き出ているためだ。食糧難のため太平洋戦争末期1944年にお堀の魚を捕ろうと水を抜いたが、薬研堀の底から湧き出る水のためお堀の水を抜くことはできなかったという。
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