本能寺の変で織田信長を攻めて滅ぼした明智光秀。その後山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れて自害したと伝わっているが、実は生き延びて江戸の町の設計をしていた?
本能寺の変で自害して果てた織田信長が実は生きていたという話はまことしやかに伝わっている。
実は明智光秀も豊臣秀吉に滅ぼされたと伝わっているが、生きていたかもしれないとの説も残っている。
目次
本能寺の変の後の明智光秀
本能寺の変で織田信長を討ち取って天下を取った光秀だが、織田家家臣の豊臣秀吉との山﨑の合戦にて敗れて落ち延びた。
落ち延びる途中で農民から竹槍で刺され深手を負い自害。
これがあの有名な『三日天下』の語源となっている。
しかし本当に明智光秀は自害をしたのか?
家臣がかくまって何処かに逃げのびた可能性はないだろうか?
天海イコール明智光秀説
徳川家康のブレーンである天台宗の高僧天海が生き延びた明智光秀ではないかという説がある。
天海は徳川家康の側近として豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺鐘銘事件に深く関わった人物である。
方広寺鐘銘事件とは
『国家安康』『君臣豊楽』との銘が方広寺の鐘に刻んであったのを、徳川家康が家康を呪い豊臣家の繁栄を願うと言いがかりをつけ大坂冬の陣の開戦のキッカケとなった事件である。
豊臣家に一度は滅ぼされた明智光秀は天海となって豊臣家の滅亡のために徳川家康を利用したというのだ。
なぜ天海が明智光秀だといわれるのか?
いくつか根拠がある。
- 日光東照宮にある随身像の袴や建物の装飾に明智光秀の家紋である桔梗紋が多数あしらわれている。
- 比叡山に明智光秀が討ち取られたとされる1582年以降に明智光秀の名で寄進された石塔が残っている。
- 墓所である日光に明智平と呼ばれる地域が残っている。
- 春日局が三代将軍家光の乳母となり天海に会った時に昔からの知り合いのように振る舞ったこと。(春日局の父は明智光秀の家臣の斎藤利三である)
以上のようなことが天海が明智光秀であるという説の根拠となっている。
大坂冬の陣以後の天海の活躍
江戸に幕府を
江戸の地に幕府を開くよう進言したのも天海であった。
天海は風水の知識に長けていた。
その知識をもってして江戸が未来永劫に渡り栄えると知っていた。
江戸幕府開府より江戸・明治・大正・昭和・平成と400年以上も首都として繁栄しているのもまさに明智光秀がこの地を選んだおかげである。
江戸城の場所やお堀の形まで
天海が江戸城の詳細な場所やお堀の形までも風水により決定していた。
通常は敵から攻められにくい場所や攻防のためのお堀の配置や形状を考えるのだが、天海は違った。
徹底的に風水にこだわり、風水上で良いとされるものは全て取り入れた。
その結果、菩提寺や鬼門への守護となる寺院や神社の創建なども風水により決められた。
これが今の東京の街の形を作ったと言っても過言ではない。
江戸城の場所
陰陽道により上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の各台地の先端を結ぶ地に江戸城を置いた。
それらを結ぶ地に気が集まることを風水により知っていたといわれている。
また鬼門を鎮めるために江戸城から直線の位置に寛永寺、神田神社、増上寺を並べ、裏鬼門を鎮めるために浅草寺と日枝神社を並べた。
さらに鬼門、裏鬼門の鎮護のために神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭の江戸の三大祭を盛大に行った。
江戸から現在の東京へ
天海は116歳まで生きたとも伝えられている。
徳川家康とともに江戸の都市計画を画策し徳川家康が亡くなってからも徳川家康の遺志を継いで50年間もの長きに渡り江戸の町を作り続けたのである。
現在の東京の繁栄があるのも全て天海こと明智光秀が作り上げたおかげであるといっても過言ではないだろう。
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