日本で初めて電話が開通したのは明治23年12月16日。それに遅れること8年後の明治31年10月11日、ついに名古屋でも一般加入者204名の電話回線が開通した。
目次
名古屋に電話が開通するまでの苦労
電話架設の要望
明治23年(1890年)に東京、横浜、大阪、神戸で電話が開通していった。
名古屋でも電話を開通させてほしいとの機運が高まりをみせていた。
そこで明治26年7月8日に名古屋商工会議所の役員会で政府に電話架設の要望を陳情することを決めた。
政府の対応
しかし当時は日清戦争の最中であった。
政府は軍事以外の事業をほとんど認めなかった。
もちろん電話架設も例外でなく政府の認可は得られなかった。
ついに電話交換局の開設にこぎつける
早期架設陳情を繰り返した結果、明治30年12月1日についに電話交換局が設置されることとなった。
場所は新柳町5丁目に建てられた。(現在の中区錦2丁目NTTデータ伏見ビルがあるところ)
レンガ造りの洋風の建物で当時としても珍しい洒落た造りであった。
名古屋に電話のベルが鳴り響いた日
明治31年10月11日、一般加入者204名の架設工事も終わりついに名古屋に電話のベルが鳴り響いた。
名古屋電話交換局の加入地域
普通加入区域
- 名古屋市
- 愛知郡のうち、熱田町
特別加入区域
- 愛知郡のうち、鍋屋上野村、田代村、広路村、御器所村、古沢村、瑞穂村、呼続村、宝田村、八幡村、笈瀬村、那古野村、鷹羽村、千種村
- 西春日井郡のうち、枇杷島町、庄内村、西枇杷島町、金城村、清水村、杉村、萩野村、六郷村
分局の誕生
電話開通のその後
204名の加入者から始まった名古屋の電話事業だが、10年後の明治31年にはおよそ10倍に達した。
名古屋市は大正時代を迎えると第1次世界大戦を契機に産業都市へと大きく発展していった。
それに伴い、電話の需要も年ごとに激増していった。
電話需要の推移
大正元年(1912年)には申し込んでも設置できていない電話が17,000件にものぼった。
その7年後の大正8年には36,000件を超えている。
その間に設置した電話も8,700件にも達した。
申込者の急増への対応
申込者の急増に本局だけでは対応しきれなくなってきた。
そこで名古屋市内に分局をいくつか作って電話架設の要望に応えれるようにした。
分局の開設
- 東電話局分局(大正8年2月23日開設)
- 南電話局分局(大正11年2月5日開設)
- 西電話局分局(大正13年3月15日開設)
その後、太平洋戦争の終戦の日に廃局されるまで名古屋市内の交換業務を続けた。
戦局の拡大と戦災復興
満州事変から日華事変と戦局は拡大していき各産業とも活性化していた。
しかし政府は軍需産業以外の電話設置を認めない方針でいたため一般の加入希望者は電話を設置できない状態であった。
昭和20年に入ると名古屋市街に空襲が続き名古屋市中心部は一面焼け野原となった。
名古屋の電話加入者数も戦争前は35,000件を数えたが終戦後には3,200件まで落ち込んでしまった。
その後、戦災復興で戦争前の加入者数まで戻るのに7年を要した。
日本電信電話公社の発足
戦後復興の高まりとともに電話需要も日増しに大きくなった。
しかし一方では申し込んでもなかなか設置できないという不満も大きくなっていった。
そこで官営事業では民間の期待に添えないという判断のもと、民間の力を取り入れた公共企業体として昭和27年8月1日に日本電信電話公社が発足した。
その翌年から『申し込んでもつかない電話の解消』を目指して電話拡充計画を実施していった。このようにして名古屋の電話加入者数は昭和51年には80万件を突破した。
名古屋の電話加入者数推移(戦前)
明治31 | 204 |
明治35 | 1,233 |
明治40 | 1,584 |
明治45 | 5,008 |
大正6 | 7,626 |
大正11 | 13,765 |
昭和2 | 20,901 |
昭和7 | 24,845 |
昭和12 | 32,623 |
昭和17 | 34,907 |
昭和20(終戦時) | 3,200 |
戦後の電話加入者数統計
昭和22 | 12,468 |
昭和27 | 37,092 |
昭和32 | 72,304 |
昭和37 | 138,870 |
昭和42 | 314,115 |
昭和47 | 575,000 |
昭和52 | 828,000 |
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