可憐な壺形の花を咲かせる馬酔木(アセビ)は、単なる美しい植物ではありません。その名前の由来には強い毒性が秘められ、さらに近代日本の俳句史を動かす結社の名として、現代までその系譜が続いています。
近代俳句史の奔流「馬酔木」
植物の馬酔木を最も有名にしたのは、その名を冠した**俳句雑誌『馬酔木(あしび)』**でしょう。
この雑誌は1918年(大正7年)に創刊された前身誌を経て、1928年(昭和3年)に俳人の水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)が改題し、主宰しました。秋桜子は師である高浜虚子の「客観写生」から離れ、より主観的で浪漫的な表現を追求する「新興俳句運動」の旗手となり、『馬酔木』は当時の俳壇に大きな影響を与えました。
この結社は、秋桜子の主宰のもと発展を続け、彼の没後も、長男である水原春郎(みずはら しゅんろう)が主宰を引き継ぎました。さらにその後、孫の水原佐月(みずはら さつき)が現在の主宰を務めており、創刊から一世紀近くにわたって、水原家三代によってその歴史と伝統が現代まで脈々と受け継がれています。
江戸時代から知られた「毒」の利用法
「馬が酔う木」という名の由来の通り、馬酔木は葉や茎にグラヤノトキシンという強い有毒成分を持ちます。馬や牛が食べると麻痺を引き起こし、重篤な場合は人間にも致命的な影響を与えかねません。
しかし、この毒性ゆえに、馬酔木は古くから人々の生活に役立てられてきました。江戸時代後期の代表的な本草学者であった小野蘭山の著書**『本草綱目啓蒙』**にも、その利用法が記されています。
当時の人々は、馬酔木の葉を煎じた汁を冷やして畑に撒き、天然の殺虫剤として利用していました。また、家畜の皮膚の寄生虫駆除や、ウジ虫(ハエの幼虫)の駆除にも用いられており、その毒の強さを逆手に取った実用的な知恵として活用されていたのです。
古代の風情と現在の自生地
馬酔木の花は『万葉集』にも詠まれるほど古くから日本人に愛されており、その可憐な姿は今も庭木として人気です。
日本では本州、四国、九州の山地に広く自生し、早春には枝先にスズランに似た小さな壺形の花を房状に咲かせます。特に、野生の鹿が毒を避けて食べないため、奈良公園などでは馬酔木だけが群生している独特の光景が見られます。
馬酔木という一つの言葉には、文芸、薬学、そして自然の知恵が詰まった、日本文化の奥深さが凝縮されているのです。

























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