名古屋城の威容の下、300年もの長きにわたり、尾張藩の最高機密を守り抜いた一族がいました。彼らの名は、「御土居下御側組同心(おどいしたおそばぐみどうしん)」。表向きは藩主の側近たる下級武士、その実態は、落城の際に藩主を極秘裏に脱出させるという**一子相伝の「尾張忍者」**集団でした。
18軒の侍屋敷に秘められた、世にも稀な忠誠の物語を紐解きます。
1. 御土居下同心の正体と極秘の使命
御土居下同心は、名古屋城の北側に屋敷を与えられた18家の世襲制の集団です。
• 表向きの役職: 「御側組(おそばぐみ)」と称し、藩主の側近として仕える下級武士でした。
• 裏の極秘任務: 敵に攻められ名古屋城が落城の危機に瀕した際、藩主を護衛し、木曽路へと脱出させること。
• 秘密の徹底: この計画は藩の中でもごく一部の者しか知らない最高機密であり、同心たちは世間との交流を断ち、任務を一子相伝で継承しました。
• 文武両道: 藩主の側近として高い教養と武術を身につけていました。
2. 任務遂行のための「特殊技能」
同心たちは単なる武士ではなく、非常時に役立つ特別な技能を家ごとに受け継いでいました。これは「尾張忍者」とも称される所以です。
• 忍術の達人(広田家):
• 頭と肩が入る隙間があれば、関節を外して自由に出入りする。
• 鉤の付いた綱一本で林の中を鳥のように飛び回る。
• 忍駕籠の番人(大海家):
• 柔術の達人を輩出。藩主を乗せる極秘の「忍駕籠」を保管する重要な役割を担いました。
• 最古参と藩主の信頼(久道家):
• 清洲城時代から続く最古参の家柄。2代続けて藩主の**御乳人(おちちびと)**を務めた記録があり、藩主からの信頼が厚い家でした。
• その他の技能: 潜水の巧者、細工に長けた者、力持ちなど、各家が任務に必要な特殊技術を分担していました。
3. 名古屋城からの「命の脱出ルート」
藩主を城外へ導く経路は、緻密に計画されていました。
1. 城内からの脱出:
• 天守閣の裏手にある**埋御門(うずみごもん)**から空堀へ。
• 隠し舟で水堀を渡り、御深井御庭の**鶉口(うずらぐち)**から城外に出ます。
2. 重要な中継地点:
• 城外に出た最初の地点は、藩主御用の離れ茶室**「竹長押茶屋」**。ここで同心たちが藩主を迎え入れます。
• その後、大海家へ移動し、極秘の**「忍駕籠」**に乗せられます。
3. 木曽路へのルート:
• 御土居下を出発後、清水、片山蔵王、大曽根を経て、勝川、沓掛を通過し、最終目的地である山間の瀬戸定光寺を目指しました。
• (備考)この脱出ルートは、現代の名鉄瀬戸線とJR中央本線のルートとほぼ重なります。
4. 300年の秘密を守り抜いた「忍駕籠」の真実
御土居下同心の極秘任務を象徴するエピソードが、大海家に常置されていた「忍駕籠」です。
• 設置の経緯: 第6代藩主・徳川継友公の勅命により、脱出の要として大海家に極秘に納められました。
• 完璧な守秘: 同心たちはこの駕籠の存在を暗黙のうちに了解していましたが、決して他言しませんでした。
• 明治維新後の驚き: 明治維新後、大海家が藩に駕籠の返還を申し出た際、藩の役人は誰もその駕籠の存在を知らず、設置経緯も分からなかったという事実が判明しました。
• 忠誠の証: これは、同心たちが300年もの間、藩内部の者さえにも漏らすことなく、最高機密を完全に守り通したという、揺るぎない忠誠心の証です。
5. 御土居下の終焉と残された痕跡
長きにわたる任務は、時代の移り変わりと共に幕を閉じます。
• 生活の困窮: 明治維新後、禄を離れた同心たちの生活は厳しく、明治10年ごろから組員は離散し始めました。
• 土地の接収: 明治40年、軍の命令により御土居下の土地が名古屋城の練兵場拡張のために接収され、住民は立ち退きを余儀なくされました。
• 現在の状況:
• 旧同心屋敷跡地は、現在、集合住宅、県庁職員アパート、かつての運転試験場や市バス停車場跡地などとなっており、当時の面影はほとんど残っていません。
• 残された歴史:
• 脱出ルートの中継点であった竹長押茶屋は、明治5年に愛知県弥富市に移築され、市の指定文化財として現存しています。移築後には明治天皇・皇后の休息所としても使用された、格式高い建物です。
歴史の裏舞台で、藩主の命を背負い、生涯を捧げた「御土居下御側組同心」。彼らが示した一子相伝の使命感と、比類なき忠誠心は、名古屋城の秘められた歴史として今に伝わっています。
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