【清洲宿の密約】幕末・尾張藩を分けた「青松葉事件」の血塗られた決断






慶応4年(1868年)1月。京都の政情が激変する中、親藩筆頭の尾張藩の命運は、ある一泊の密談によって決まりました。その舞台は、名古屋城の手前に位置する清洲宿です。

名古屋城で起こった悲劇的な大粛清、青松葉事件は、この清洲での「血の盟約」なくして語ることはできません。

1. 藩主が下した「血の選択」:京都からの帰路

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府の議定という要職にあった前藩主・徳川慶勝は、強烈な危機感に襲われました。尾張藩内に根強く残る佐幕派(ふいご党)が、藩を新政府への敵対へと導く恐れがあったからです。

京都で新政府軍から「朝廷に反逆する者を討て」という**「姦徒誅戮(かんとちゅうりく)」の勅命**を受け取った慶勝は、一刻の猶予もないと判断し、名古屋へと急ぎます。

しかし、彼はすぐには城に戻りませんでした。

2. 清洲宿:尾張藩の進路を決めた一夜の謀議

1月19日、慶勝は名古屋城直前の清洲宿に仮泊します。ここで、彼は藩内の勤王派(金鉄組)の中心人物と極秘裏に合流しました。

会談の主要な参加者は以下の通りです。

• 徳川 慶勝:勅命を携え、藩論統一を焦る主宰者。

• 成瀬 正肥(なるせ まさみつ):勤王派の頂点に立つ御附家老。藩内で絶大な権力を持ち、慶勝の最大の協力者。

• 吉田 知行:監察(目付)として、藩内の佐幕派の動向を慶勝に報告した人物。

この静まり返った宿場で議論されたのは、ただ一つ。藩の進路を勤王に決定づけるための、**佐幕派重臣の「即刻処刑」**でした。

成瀬正肥ら勤王派は、佐幕派の領袖である渡辺新左衛門在綱らを取り調べていては時間がかかり、藩論が定まらないと主張しました。そして、新政府からの「朝命」を根拠に、弁明の機会を一切与えずに斬るという、冷酷な計画を慶勝に進言し、了承を得たのです。

清洲の一夜は、尾張藩の未来を「勤王」に定め、同時に佐幕派に死を宣告した「血の盟約」の場所となりました。

3. 事件の勃発:問答無用の粛清

翌1月20日、清洲から名古屋城に帰城した慶勝は、直ちに処断を実行します。

二之丸御殿に呼び出された重臣、渡辺新左衛門、榊原勘解由、石川内蔵允の3名は、一切の詮議もなく「朝命である」の一言で斬罪に処されました。清洲で練られた計画通り、問答無用の粛清劇の始まりでした。

この後、14名が斬首される青松葉事件が完了し、尾張藩は完全に新政府側へと舵を切ります。

4. 後日談:裁かれた者と栄達した者

血の粛清は、尾張藩の維新への貢献を決定づけましたが、後には悲劇性が強調されることになります。

• 冤罪の歴史:処刑された渡辺新左衛門らは、後に新政府から「行き過ぎ」として名誉を回復され、遺族には家禄が与えられました。この事実は、清洲の密談で決まった粛清が、必ずしも厳密な司法手続きに基づいたものではなかったことを示唆しています。

• 渡辺家のその後:渡辺新左衛門の次男・渡辺亘は後に家名を再興し、血縁者には近代小説家の渡辺霞亭がいます。

• 成瀬家の昇格:一方、事件を主導した成瀬正肥は功績が認められ、長年の悲願であった犬山藩を正式に立藩(独立大名化)し、華族として明治を迎えました。

清洲で交わされた密約は、尾張藩の運命を左右し、関係者の人生を天国と地獄に分ける、幕末の裏側で起こった最大級のドラマだったのです。


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トヨタディーラーで10年営業マンを経験。 その後、現職である保険代理店へと転職。 ディーラーにいたからこそわかるお得な買い方を伝授します! 最近は神社仏閣めぐりに毎週のように出かけ、御朱印集めにはまってます。