小説『冬の派閥』の主人公、御三家筆頭・尾張藩主、徳川慶勝。彼の生涯は、激動の幕末において「徳川の血筋」という重荷を背負いながら、藩の運命と旧家臣の命運を一身に担った苦悩の連続でした。その物語は、血の粛清**「青松葉事件」を経て、遠く北海道八雲町**の開拓へと繋がっていきます。
徳川慶勝を取り巻く複雑な血縁と政局
慶勝の政治的な立場は、極めて難解でした。
将軍家・徳川慶喜との「いとこ対決」
最後の将軍となる徳川慶喜(一橋家当主)とは、共に水戸藩主・徳川斉昭の甥(慶勝)と子(慶喜)といういとこ同士でした。安政の大獄では共に処分を受けるなど、一時は近い立場にいましたが、その後の生き方は対照的でした。慶勝は「熟察」を旨とする生真面目な勤王家として、徳川家を存続させる道を模索し続けました。しかし、慶喜は大政奉還後に新政府と対立し、鳥羽・伏見の戦いで敗れると、大坂城から海路で逃亡。この行動は、慶勝に「徳川家を捨てる行為」と強く映り、両者の溝は決定的なものとなりました。
水戸藩・斉昭との「尊王」の共鳴
一方、慶勝の母は水戸藩主・徳川斉昭の姉であり、水戸藩とは血縁を通じて関係が深く、政治的にも尊王(勤王)思想を共有していました。この「徳川家でありながら天皇を尊ぶ」という精神的基盤が、尾張藩の幕末における進路を決定づけることになります。
青松葉事件:藩の存続を賭けた血の粛清
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、徳川慶勝は最大の試練に直面します。
勅命による決断
慶勝は新政府の要職にいましたが、弟の会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬が「朝敵」となったため、徳川一門である尾張藩にも新政府からの疑いが向けられます。新政府軍から**「姦徒誅戮(ちゅうりく)」**、すなわち「朝廷に逆らう者を粛清せよ」という勅命が下ります。
藩論統一のための悲劇
藩内の佐幕派(旧幕府支持派)の重臣たち、特に筆頭格の渡辺新左衛門らは、この激変の時代に幼い藩主を擁して旧幕府側につくことを画策しているとされました。慶勝は、尾張藩を徳川宗家から切り離し、新政府への忠誠を命がけで示すため、弁明の機会を与えることなく、渡辺新左衛門ら14名を斬首しました。これが**「青松葉事件」**です。
尾張藩の進路決定
この凄惨な粛清劇により、尾張藩の藩論は完全に勤王・討幕で統一されました。尾張藩は新政府軍の東海道先鋒となり、徳川宗家を討つ側に回るという、御三家として極めて異例の道を歩むことになったのです。慶勝の「熟察」は、藩と徳川一門の存続という大義のために、血を流すという非情な決断を下させたのでした。
再生への道:北海道八雲町への入植
事件から10年後、慶勝は再び重い責務を背負います。
旧藩士救済への責務
明治維新後の廃藩置県により、多くの旧藩士は禄を失い困窮していました。特に、青松葉事件で犠牲となった藩士の遺族や、生活に苦しむ旧家臣たちに対し、慶勝は深い責任を感じていました。
士族授産の模範へ
単なる資金援助ではない、旧士族の誇りと自立を取り戻すための士族授産が必要でした。慶勝は、北海道の未開地に入植し、開拓という国家貢献事業を通じて彼らに新たな生業を与えることを決意します。
遊楽部から八雲へ
明治11年(1878年)、慶勝は北海道開拓使から渡島半島北部の遊楽部(ゆうらっぷ)原野(現在の八雲町)の広大な土地の払い下げを受け、旧藩士族の集団移住が始まります。
開拓は厳寒の地での重労働であり、困難を極めましたが、彼らは「殿様の想い」を胸に耐え抜きました。そしてこの地は、後に慶勝の養嗣子・徳川義礼により「八雲立つ…」の和歌にちなんで**「八雲」**と名付けられ、尾張徳川家による士族開拓の成功例として、北海道の歴史に深く刻まれることとなったのです。
青松葉事件の悲劇は、海を越えた八雲の地での再生へと繋がっていったのです。
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