大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したとされる慶長20年(1615年)。武士の世の習いとして、真田幸村は壮絶な最期を遂げ、豊臣秀頼と息子・国松は自害または処刑されたというのが定説です。
しかし、この壮絶な歴史の裏側には、人々の間で密かに語り継がれた**「生存伝説」**が深く根付いています。それは、豊臣家の再興を願う庶民の夢が生んだ、ロマンに満ちた物語です。
巷に流行したわらべ唄「加護島(かごしま)へ」
大坂城が焼け落ちた直後、京の都では一つのわらべ唄が流行しました。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」
これは、自害したはずの豊臣秀頼を、討ち取られたはずの真田幸村が密かに大坂城から脱出させ、遠く離れた**薩摩(鹿児島)**まで逃げ延びさせたことを示唆しています。
特に関西圏において、豊臣家への親近感や慕情を抱く庶民が大勢いたことは想像に難くありません。万城目学の小説が原作の映画『プリンセス・トヨトミ』で、真田家の末裔とされるお好み焼き屋の大将が豊臣家の血筋を見守る設定があったのも、この関西に残る豊臣への思いを象徴していると言えるでしょう。
真田幸村の子孫? 九州の「真江田家」の謎
慶長19年(1614年)の「方広寺鐘銘事件」に端を発し、徳川家康による大坂攻めが始まりました。真田幸村は「真田丸」で徳川方を苦しめるも、堀を埋められた大坂城は裸同然となり、翌年の夏の陣で豊臣方は敗北します。
定説では自害したとされる真田幸村ですが、生存説では、彼は一族と共に若き豊臣秀頼を連れて大坂城を脱出し、わらべ唄の通り九州鹿児島へと逃げ延びたと言われます。
そして、幸村はこの地で自らの名(真田)を偽装するため、姓に「江」を挿入し、**真江田(まえだ)**と名を変えて豊臣家再興の時をうかがっていたと伝承されます。
鹿児島県南九州市頴娃町別府に突如として真江田家が興ったというタイミングは、この真田家末裔説の信憑性を高める要素とされています。さらに、この真江田家の墓には、真田家の家紋である**「六文銭」**が刻まれているとも言われ、人々のロマンを掻き立てています。
豊臣国松を匿った「木下家」の秘話
秀頼の息子である豊臣国松(当時8歳)にも生存伝説があります。
彼は明石全登に連れられ大坂城を脱出し、薩摩へ逃げ延びたとも、九州の日出(ひじ)藩に匿われたとも伝わっています。
日出藩主の木下延俊は、秀吉の正室である北政所(ねね)の甥にあたるため、豊臣家とは深いつながりがありました。この木下家を頼って国松が生き延び、木下延由と名を改めたという説が、特に日出藩の木下家に代々一子相伝で伝えられていた秘話として残されています。
延俊は国松に「縫殿助」という名を与え、彼を弟として遇し、藩の分領である立石領の初代領主に据えたとされます。現代まで木下家が続いているという話は、この伝説を現代に繋ぐ架け橋となっています。
真田幸村と豊臣家の滅亡は、日本の戦国時代の終焉を象徴する出来事です。しかし、これらの生存伝説は、たとえ史実でなくとも、時代を超えて人々の心の中で豊臣家と真田家の魂が生き続けていることを示しています。歴史の闇に消えた英雄たちの「もしも」の物語は、これからも多くの人々を魅了し続けるでしょう。
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