幻の「三角山」を追う:名古屋城外堀に埋もれた防空壕の記憶






名古屋の都心、栄と瀬戸を結ぶ名鉄瀬戸線。かつてこの路線が名古屋城のお堀の底を走っていたという話は、地域の歴史として広く語り継がれています。しかし、この「お濠電車」の通っていた外堀のすぐそばには、もう一つの、あまり知られていない歴史が眠っています。

それが、名古屋城の石垣近くにひっそりと存在する、地元で「三角山」と呼ばれた小高い丘と、そこに隠されていたとされる戦時中の防空壕の物語です。

「三角山」の場所はどこか?

この「三角山」は、名鉄東大手駅の北西、愛知県立明和高校の向かい、名古屋城の外堀沿いに位置しています。このエリアは、瀬戸電が地上へ顔を出したり、地下へ潜ったりする、地形が複雑に入り組んだ場所であり、城の防御施設である土塁や石垣が連なっています。

都会の真ん中にありながら、どこか秘密めいた雰囲気を漂わせるこの丘は、古くから近隣住民に知られていた場所です。

「川口浩探検隊」に刺激された子供たちの冒険

今から40年以上前、当時テレビでは「川口浩探検隊」が放送され、世の中は未確認生物や秘境への探検ブームに沸いていました。

この社会現象は、地元の子供たちにも大きな影響を与えました。彼らにとって、この三角山は格好の「秘境」であり、**「探検ごっこ」**の舞台でした。

当時の山には、人があまり通らない「けもの道」のような細い道が続いており、子供たちは勇んで奥へと進んでいきました。そして、山の中腹あたりに、大人がかがんでようやく入れる程度の小さな穴が開いていたのです。

その穴こそ、この地の歴史を物語る重要な痕跡でした。

穴の内部に広がる秘密の空間

恐る恐る穴の中へ入ってみると、深さ1.5メートルほど進んだ先に、大人が3人ほど座れるだけの空間が広がっていました。

この穴は、自然にできたものではなく、明らかに人の手によって掘られた横穴でした。入口には扉などの痕跡はなく、内部にはすでに土砂が積もっていましたが、その形状は人が身を隠すために作られたことを明確に示していました。子供心にも、「これは防空壕に違いない」と確信できるような、緊張感のある空間だったといいます。

なぜ、お城のそばに防空壕が?

名古屋城は、徳川家康ゆかりの歴史的建造物であると同時に、戦時中は陸軍第3師団の司令部が置かれた軍事上の重要拠点でもありました。

アメリカ軍の爆撃対象から歴史的建造物(ウォーナーリスト)が除外されていたという説もありますが、実際には1945年の名古屋大空襲で名古屋城は炎上焼失しています。軍事拠点が近くにあった以上、いつ空襲に遭ってもおかしくない状況でした。

そのため、城の関係者や近隣の住民が、緊急時の避難場所として、外堀沿いの土塁に防空壕を掘っていたと推測するのが自然です。この「三角山」の防空壕は、空襲の恐怖に備えた人々の緊迫した日常を今に伝える、貴重な歴史の証言なのです。

失われゆく歴史の痕跡

現在、この三角山を含む名古屋城外堀一帯は、文化財保護のため名古屋市によって厳重に管理されており、関係者以外の立ち入りは禁止されています。

かつて子供たちの秘密基地だった防空壕の穴が、今も残っているのかどうか、外部から確認することはできません。しかし、この地域には「瀬戸電」の廃線跡だけでなく、空襲の記憶にまつわる無数の人々の営みが埋もれていることを、私たちは忘れてはいけません。

この「三角山」の防空壕の存在が、もし公的な調査によって証明されるなら、それは名古屋の都市開発の陰に隠れた、貴重な戦争遺跡として後世に伝えられるべきでしょう。お濠を訪れる際は、かつて電車が走っていた景色だけでなく、石垣の向こう側にある、もう一つの隠された歴史に思いを馳せてみてください。


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