1. 大塩平八郎の乱:元役人が命を懸けた「天保の大飢饉」への義憤
大塩平八郎の乱は、江戸時代後期の天保8年(1837年)に、幕府の直轄地である大坂で勃発した大事件です。この反乱は、単なる米騒動ではなく、幕政に対する元役人の**「義挙」**として、後世に大きな衝撃を与えました。
乱の背景:民衆を襲った天保の大飢饉
乱の根本原因は、全国を襲った天保の大飢饉による米価の異常な高騰です。大坂の街には餓死者が続出する一方、大坂町奉行所は十分な救済策を講じず、米を買い集めて江戸へ送る政策を優先しました。
大塩平八郎は、元大坂町奉行所の与力であり、陽明学の私塾「洗心洞」を開く著名な儒学者でした。彼は、奉行所内の汚職や腐敗も知り尽くしており、民衆を見殺しにする幕府の姿勢に怒りを爆発させます。
大塩は、私財を投じ、腐敗した役人や米を買い占める豪商を討伐するために武装蜂起を決意。自らの屋敷に火を放って決起しましたが、密告により計画が露呈し、乱はわずか半日で鎮圧されてしまいました。この火災は「大塩焼け」として知られています。
2. 壮絶な自決:幕府が「遺体を塩漬け」にした異例の処置
乱の鎮圧後、首謀者の大塩平八郎と養子の格之助は行方をくらましますが、約40日間におよぶ潜伏を経て、大坂市内の隠れ家で発見されます。
大塩平八郎の最期は極めて壮絶でした。生け捕りにされることを拒んだ大塩は、包囲した幕府の捕吏に対し、火薬と短刀を用いて隠れ家ごと自決しました。
遺体損壊と生存説の温床
この自決方法により、発見された大塩親子の遺体は黒焦げで顔さえも判別できないほど激しく損傷していました。
幕府は、これが大塩であると断定したものの、異例の処置として遺体を塩漬けにして長期保存しました。これは、遺体の腐敗を防ぎ、本人である証拠を確保した上で、後の磔刑(はりつけ)に備えるため、あるいは、人々に大塩の最期を見せつけるための措置とされます。
しかし、この「遺体の識別が困難な状態」と「異例の塩漬け保存」が、かえって大塩平八郎 生存説という都市伝説を生む大きな要因となりました。
3. 歴史ミステリーの核心!大塩平八郎「ヨーロッパ逃亡説」の真相
乱の直後から、民衆の間では「大塩は生きていた」「薩摩へ逃げた」「異国へ渡った」といった風説が飛び交いました。これらの噂は、幕政に不満を持つ人々の**「英雄は死なず」**という強い願いの表れでもありました。
その中でも、最もロマンあふれるのがヨーロッパ逃亡説です。
碑文に記された驚愕のルート
この説の根拠とされるのが、乱に加担したとされる**秋篠昭足(あきしの しょうそく)**の墓の碑文です。この碑文には、次のような驚くべき内容が記されています。
• 秋篠氏が大塩父子の逃亡を手助けした。
• 大塩平八郎親子ら数名は、海路で天草島へ潜伏した後、清国(中国)へ渡った。
• さらに大塩父子は清国からヨーロッパへ渡り、そこで生きた。
逃亡説の真偽
この碑文が示す壮大な海外逃亡ルートは、当時の幕府の厳しい鎖国体制を考えると、現実的には極めて困難であったと見られています。また、碑文の内容がどこまで史実に基づいているか、確固たる証拠はありません。
しかし、当時の日本は同年にアメリカのモリソン号が日本近海に接近しており、「大塩平八郎が黒船と結託して江戸を襲撃する」という風説も流れるなど、異国や海外への関心が高まっていました。
大塩平八郎の乱は短期間で鎮圧されたにもかかわらず、元役人が命を懸けた義挙と、その後の不確かな最期が結びつき、人々は彼の生存説という形で、腐敗した幕府に対する抵抗の象徴を心の中で生き続けさせたのです。この歴史ミステリーは、幕末へと時代が動く人々の意識の変化を示す、興味深い事例と言えるでしょう。
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