幕末・尾張藩最大の悲劇:「青松葉事件」の真相と血塗られた維新の裏側






慶応4年(1868年)1月20日、名古屋城の二之丸御殿に血が流れました。

この日、尾張藩の重臣たちが弁明の機会もなく斬罪に処せられるという事件が発生します。世に言う**「青松葉事件」**。親藩(徳川一門)筆頭である尾張藩が、新政府側につくための「血の踏み絵」として行ったとされるこの大粛清は、なぜ起こり、その後、関係者には何が起こったのでしょうか。

1. なぜ「青松葉」は斬られたのか:事件の首謀者と対立構造

事件名の由来は、筆頭処刑者である年寄列(家老)の**渡辺新左衛門在綱(わたなべ しんざえもん ありつな)**の通称「青松葉」から来ています。彼は「槍の半蔵」渡辺守綱の子孫にあたり、藩内では確固たる勢力を持つ佐幕派(幕府を支える勢力)の領袖と目されていました。

この事件の根底にあったのは、尾張藩内を二分した長年の派閥争いです。

• 佐幕派(ふいご党): 幕府との関係を重視し、渡辺新左衛門らが中心。

• 勤王派(金鉄組): 尊皇攘夷を掲げ、藩主・**徳川慶勝(よしかつ)**を支える勢力。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、慶勝(当時、新政府の議定)のもとに「佐幕派が幼い藩主を擁して幕軍に投じようとしている」という情報(真偽不明)が届きます。新政府への忠誠を示すため、慶勝は藩内の親幕勢力を一掃する必要に迫られました。

2. 「決断の場」となった清洲宿と成瀬家の役割

この大粛清を実行するための、極秘の謀議が行われたのが、名古屋城の手前にある**清洲(きよす)**の宿場でした。

慶勝は京都で新政府から「姦徒誅戮(かんとちゅうりく)」(朝廷に反逆する者を討ち殺せ)の勅命を受け、急ぎ帰国。1月19日に清洲宿に立ち寄り、そこで信頼する側近たちと会談します。

この会談で、勤王派の中心人物であった成瀬正肥(なるせ まさみつ)らが主導し、「渡辺新左衛門ら佐幕派重臣を、帰城と同時に朝命を盾に即刻処刑する」という断固とした方針が決定されました。これが、青松葉事件の実行計画が固まった瞬間です。

特に、事件を主導した勤王派の中心には、藩主を補佐する御附家老(おつけがろう)の一角である成瀬家がいました。成瀬家は将軍家から派遣された犬山城主であり、その権力は絶大。この強力な「親王家臣」の支持があったからこそ、慶勝は躊躇なく粛清を断行できたのです。

3. 血塗られた実行と残された悲劇

1月20日、名古屋城に帰城した慶勝は、何の取り調べもなく、渡辺新左衛門、榊原勘解由、石川内蔵允の重臣3名を二之丸で斬罪に処します。その後25日にかけて粛清は拡大し、最終的に14名が斬首され、20名が処罰されました。

この非情な粛清の結果、尾張藩の藩論は完全に勤王・倒幕へと統一されました。しかし、後にこの事件は「長年の藩内派閥争いが、維新の動乱に乗じて行われた血の粛清であり、処刑されたのは冤罪であった」という見方が強くなります。作家・城山三郎の小説『冬の派閥』の題材となったことでも、その悲劇性が知られています。

4. 後日談:名誉回復と関係者のその後

事件はここで終わりません。後日、朝廷自身がこの措置を「行き過ぎ」であったと認め、関係者の名誉回復が行われました。

• 名誉の回復:明治3年(1870年)、新政府は大赦を発令し、渡辺新左衛門ら14名の名誉を正式に回復しました。遺族には家禄が支給され、生活が保障されました。

• 渡辺家のその後:渡辺新左衛門家は次男の渡辺亘によって家名を再興。また、在綱の甥には、後に著名な小説家となる渡辺霞亭がいます。

• 成瀬家の昇格:事件を主導した成瀬家は、戊辰戦争での功績が認められ、慶応4年(1868年)に明治新政府によって長年の悲願であった独立大名(犬山藩)として認められました。

現在も名古屋市には、処刑された人々を供養する十六菩薩堂が残されています。青松葉事件は、維新という大義のもとに行われた、尾張藩の暗い「影」の歴史として、今に伝えられているのです。

もし名古屋城を訪れる機会があれば、二之丸の「青松葉事件之遺跡」碑の前で、幕末の志士たちの運命に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

トヨタディーラーで10年営業マンを経験。 その後、現職である保険代理店へと転職。 ディーラーにいたからこそわかるお得な買い方を伝授します! 最近は神社仏閣めぐりに毎週のように出かけ、御朱印集めにはまってます。