織田信秀、豊臣秀吉、徳川義直らによって社地の寄進を受け繁栄していった那古野神社。江戸時代には名古屋城内にあり御城鎮守の神として尾張徳川家により護られていた。
目次
近くには名古屋市西区那古野という地名がある。もともと名古屋の地名の由来となる名前だ。
地名の那古野は『なごの』と読むが那古野神社は正式には『なごやじんじゃ』とよむ。地元の人には『なごのじんじゃ』と親しまれている。
名古屋市中区丸の内2-3-17
延喜11年3月16日に尾張国那古野庄に創建したと伝えられる歴史ある神社。
創建当時は天王社(牛頭天王社)と称されて神仏習合により真言宗亀尾山安養寺があったという。
天文元年3月に勝幡城主織田信秀が今川氏豊がいる那古野城を攻めた。連歌の会に参加して油断させておいて部下を城内へと導きいれ、城に火を放つという奇計により那古野城を奪った。
その際に牛頭天王社(那古野神社)も兵火により焼失してしまった。
那古野城を拠点とした織田信秀は牛頭天王社に社領を与え諸役を免じて社殿を再興した。天文7年のことであった。
文禄4年8月3日には豊臣秀吉が社領を与えたという記録も残っている。
慶長15年に徳川家康の命による名古屋城築城にあたり、若宮八幡宮と牛頭天王社は遷座となるところだった。結果的には牛頭天王社はその地にとどまり、名古屋城鎮守の神として祀られることとなった。
元和元年6月9日には尾張藩主徳川義直公により改めて社領の寄進を受けた。
歴代尾張藩主の崇敬が篤く毎年の例祭は盛大に行われていた。牛頭天王社は社殿の修復などはすべて尾張藩主が執り行っていた。
廃藩置県により社領は没収された。神仏混淆禁止が言い渡され社号を牛頭天王社から須佐之男神社と称して別当を廃止して神職を置くこととなった。
明治9年10月に名古屋城内に陸軍名古屋鎮台が置かれることとなり現在地である名古屋市西区茶屋町(当時の町名)に遷座となった。
明治32年に那古野(名古屋)創始の由緒として社号を那古野神社と改称した。
昭和20年3月19日の名古屋大空襲により本殿以下社殿のほとんどを焼失。
しかし昭和29年から昭和34年にかけて氏子たちの寄進により本殿以下社殿等を再建した。
名古屋の地名の由来となった那古野神社。
名古屋城からもほど近く、すぐ隣には名古屋東照宮があり、歩いていけるところには愛知県護国神社、桜天神社、冨士浅間神社などがある。
地下鉄丸の内駅、市役所駅から徒歩5分とアクセスも抜群。
自動車の場合は近くにコインパーキングが多数あるので、そちらを利用しよう。
View Comments