戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり織田信長に仕えた。もとは尾張国西春日井郡比良城の土豪。長篠の戦いにて武功を挙げた。
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戦国時代から安土桃山時代において織田信長、織田秀信、豊臣秀吉に仕えた武将。
姉川の戦いや長篠の戦いで戦果を挙げ、黒母衣衆に抜擢された。
信長死後は柴田勝家につき反豊臣派だったが、富山の役にて秀吉に降伏。
以後、秀吉に仕える。
天正15年(1587)の九州征伐で武功を挙げ、肥後一国を与えられた。
しかし検地に反発する国人による肥後国人一揆が起こり、その責を負わされ天正16年(1588)切腹をさせられた。
古記によると比良の北方にあったといわれ、東西38間(約70m)南北40間(約72m)の規模を持ち、周囲は二重堀であった。
また『織田真記』によれば「清州の東方比良村に比良城あり。佐々内蔵助成政これを守る」と記されている。
現在の比良にある光通寺付近がその地であると伝えられている。
1番有名な子孫はあの水戸黄門の助さんこと佐々木助三郎だ。
水戸光圀に仕えた佐々宗淳がモデルとされている。
そしてその佐々宗淳の子孫があさま山荘事件で指揮を執った佐々淳行氏である。
実は名古屋にも佐々成政の末裔が住んでいる。
佐々成政の子は徳川家光の正室や、狩野探幽の父、狩野孝信に嫁いだ子などがいる。
外祖父早川主水の養子となった早川雄介という男子もいて、その末裔が名古屋市西区比良に住んでいるという。
比良地区に住む早川家一族は佐々成政の末裔であると、地元の古老に聞いた。
実際、名古屋市西区比良の光通寺には佐々成政城跡の遺跡が残っている。
名古屋に合併する前の西春日井郡山田村の更に以前の山田郡比良村の時代には早川家は村長を務めていたとも地元の古老は話していた。
国の重要文化財にも指定されている二之丸大手二之門前に立派な松が植えられている。
この松は佐々成政ゆかりの早川家の庭に植えられていたものを植え替えたものと言われている。
戦国武将ゆかりの松の木だと思って眺めてみると不思議とさらに立派に見えてくる。