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名古屋市の中心部、交通量の多い国道41号線と名古屋高速の高架が交差する東片端(ひがしかたばた)に、まるで時間を超えて立ち続ける巨木があります。それが、樹齢推定350年を超える**「東片端の大楠」**です。
車は皆、この巨木を避けるように左右に車線を分け、巨大な高速道路の高架もその上を通り過ぎる。なぜ、現代の都市の大動脈のど真ん中に、これほど巨大な木が残されたのでしょうか?その背景には、恐ろしい「祟り」の噂と、名古屋の街の激動の歴史が深く関わっています。
樹齢350年超、武家屋敷から高級住宅地へ
この大楠が生まれたのは、およそ350年以上前、江戸時代初期と推定されています。
当時、この周辺(東区の橦木町・主税町)は、名古屋城の東に広がる尾張藩の中級~下級武士の屋敷街でした。大楠は、元々は武家屋敷の広大な敷地の一部、あるいは地域の集落にある**「ご神木」**として、住民に大切にされ、その成長を見守られてきました。
明治時代以降、武家屋敷の区画には、近代産業で成功した名古屋の財界人や実業家が移り住みます。「電力王」福沢桃介や「日本の女優第1号」川上貞奴などが暮らした豪華な和洋折衷の邸宅が立ち並び、東片端周辺は名古屋有数の高級住宅地として発展しました。国道41号線が整備される前は、この木は地域の生活道路沿いにある、屋敷森のような存在でした。
最初の危機:国道拡幅と「祟り」の都市伝説
この巨木に最初の大きな危機が訪れたのは、戦後復興が進む**昭和40年代(1960年代)**のことです。
当時、この地域を通っていた市道を、名古屋の大動脈となる国道41号線として大規模に拡幅する計画が持ち上がり、楠は伐採の対象となりました。
ここで、全国的に有名になったのが、**「楠の祟り」**の都市伝説です。
• 噂の内容: 「伐採工事の関係者が次々と不慮の事故や病気で亡くなった」「木を切ろうとすると祟りがある」
• 歴史的真実: この祟りの話は都市伝説とされています。この木が切られずに済んだ真の理由は、地元住民による熱心な保存運動と、それに心を動かされた当時の名古屋市長の英断によるものです。
結果、道路の設計が変更され、車線は楠を避けるように左右に分かれ、楠は「道路の真ん中に立つ、切るに切れない御神木」という現在の特異な姿となったのです。
第二の危機と高速道路が屈した理由
さらに、1980年代には名古屋高速道路(1号楠線)の建設計画が持ち上がり、巨木を名城公園へ移植する案が出されました。これも再び地元住民の強い保存運動により撤回されます。
高速道路は、楠を残すという都市計画の決定に従い、楠を避けるような特殊な高架構造で建設されました。まさに「高速道路が屈した木」と言えるでしょう。
戦火の記憶と「処刑場」の噂
この大楠の周囲は、第二次世界大戦末期の**名古屋大空襲(1945年)**で甚大な被害を受けました。周囲の木造家屋が焼け野原となる中、この巨木は戦火をくぐり抜け、復興のシンボルとしてもその存在感を高めました。
また、この大楠にまつわる「かつて処刑場があり、さらし首が行われていた」という心霊的な噂も、その神秘性を高めています。この噂は都市伝説的な側面が強いですが、東片端から南へ数キロ圏内には、実際に江戸時代の尾張藩の刑場「千本松原刑場」がありました。刑場跡地には現在、処刑された人々を弔う栄国寺が建ち、歴史的な重みを今に伝えています。
大楠の神秘的な存在感と、近隣に残る歴史の記憶が結びつき、「祟り」や「心霊スポット」としての噂をさらに強めたと考えられます。
東片端の大楠は、単なる巨木ではありません。それは、江戸時代からの歴史、戦災、都市開発、そして人々の信仰と保存への熱意、すべてを記憶し、現代に伝える**「生きた歴史の証人」**なのです。もし名古屋を訪れる機会があれば、この巨木の前に立ち止まり、その背景にある壮大な物語を感じてみてください。