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敵に攻められて名古屋城が落城してしまいそうな時、藩主を脱出させるルートがある。
そのルートの警護を極秘任務として300年もの間、一子相伝秘密裏に背負ってきた侍たちがいた。
それを御土居下同心と呼ぶ。
名古屋城天守閣の裏手の埋御門(うずみごもん)から階段を使って空壕に降り、そこから舟でお堀を渡り御深井御庭(現在の名城公園)に出て、鶉口(うずらぐち)より御土居下同心の助けを得て清水、片山蔵王、大曽根に至り勝川経由で沓掛を抜け木曽路を使い瀬戸定光寺を目指す。
実際には江戸時代を通じて名古屋城の脱出ルートを使う機会はなかった。しかし御土居下同心屋敷の18軒の侍たちは明治維新を迎えるまで、秘密裏にその任務を遂行するための準備を欠かさないでいた。
このルートは名古屋城から大曽根までは名鉄瀬戸線、その後定光寺まではJR中央本線の路線とほぼ重なる。
御土居下と呼ばれるこの秘境には極秘任務をかせられた下級武士たちが住んでいた。
非常時に城中よりの脱出通路の警護誘導という特殊な任務ということもあり、尾張藩の中でもこの極秘任務の事を知っているものは限られたものだけであった。
御土居下の者たちの極秘任務は尾張藩の中でもごく一部の者だけしか知らされていなかった。この事を物語るエピソードがある。
それが御土居下18家のうちのひとつ大海家に伝わる忍駕籠だ。藩主を乗せて木曽路を下るための脱出には決して欠かすことができない。
尾張藩第6代藩主徳川継友公の勅命により御土居下屋敷に忍駕籠を常置することとなった。それが置かれていたのが柔術の達人の大海常右衛門の家であった。
忍駕籠のことは御土居下の者は暗黙のうちに了知していたが、決して他言をしなかった。たとえ藩中のものでさえも漏らすことはなかった。
明治維新を迎え、大海家の者が尾張藩に忍駕籠の返還を申し出た。すると、尾張藩の者は誰もこの駕籠の存在を知らず、設置された経緯を調べたが詳細は分からずじまいであったという。
それほどまでに御土居下の者たちの任務は極秘なものとして300年間もの間、表に出ることなく秘められていた。それにあわせて御土居下も誰も足を踏み入れることがない秘境として、ほかの城下とは隔絶されていた。
埋御門よりお堀を船で渡って北側に渡ったところにあった竹長押茶屋。そこに御土居下同心たちが藩主を迎えにやってきて、木曽街道へと導いていく手はずであった。
竹長押茶屋は現在の名城公園南園にあるゲートボール場の横の小高い丘の辺りにあったのではないかと言われている。
またその竹長押茶屋は明治5年に佐藤七三郎氏が購入し現在の愛知県弥富市前ケ須に移転移築している。弥富市の指定文化財建造物にも指定されている。
市役所駅から名城公園駅方面に大津通りを北上し、名城公園南の信号を東に入ったところに御土居下同心屋敷が明治まで存在した。
江戸時代から尾張藩主を守るためだけに存在した尾張忍者たち。その存在は尾張藩のなかでも藩主に近い者たちだけの秘密であった。
18軒の御土居下衆は一子相伝としてら世襲制で家を守り、使命を護ってきた。
明治維新を迎えた御土居下組。
禄を離れた下級武士の生活は厳しいものであった。明治10年ごろから組員たちは離散していき18軒あった同心組も明治38年には6軒のみとなっていった。
しかし明治40年に名古屋城にあった日本陸軍の練兵場の一部とするべく軍の命令により土地の接収が行われた。
この命令により御土居下の住民たちは立ち退きを余儀なくされ、この土地を離れていってしまった。
その後は荒れ放題となっていた御土居下跡地は乗馬倶楽部ができた。また一部は市役所の建設工事ででた工事の土の棄場となり小山ができていた。
東側は愛知県庁職員のアパートができ、現在まで集合住宅が建っている。
西側は乗馬倶楽部が廃されてからは愛知県自動車運転試験場ができた。
戦後、その試験場も廃止され永らく市バス停車場があったが、令和に入りそれも取り壊されている。
現在の御土居下の状況はこのようなものである。
かつての面影は全くといっていいほど残ってはいない。しかしここに確かに尾張藩主を守ることだけに一生を捧げた一族たちがいたことは紛れもない事実である。