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名古屋市内を南北に流れ市民の憩いの場でもある堀川。総延長約16キロメートルの一級河川である堀川は実は人工の河川であった。堀川は一体いつ作られた河川だったのであろうか。
自然に誕生したわけではない人工の河川である堀川は一体いつ頃掘削されたのであろうか?
慶長15年(1610年)名古屋城の築城と城下町の建設を開始した徳川家康は街の発展に必要不可欠な河川を掘削することを考えた。
都市の発展には大きな河川が必要だ。しかし名古屋台地の岬の先に築城を目指した名古屋城であったが近くに大きな河川がなく、大きな河川といえば数キロ北にある庄内川であった。都市交通の一部としての河川を利用する目的の為にはやや距離があった。
そこで徳川家康は名古屋城のすぐ脇に河川を掘削することを福島正則に命じた。
当時の物流の中心は海運が担っていた。全国各地から海運により運ばれた物資はさらに河川を通じて街中へ運ばれるのが一般的であったからだ。
名古屋城下と熱田湊を結ぶ総延長7キロメートル深さ2メートル幅20メートルほどの河川を掘削した。それこそが堀川である。
そうして作られた堀川により熱田湊に荷揚げされた様々な物資が川を上って名古屋城まで運ばれた。堀川沿いにはそれらの物資を扱う問屋が並ぶようになり一帯は尾張国随一の経済拠点として発展を遂げた。
掘削当時の堀川には流れ込む河川がなく河川とはいいながら海の延長のようなものであった。堀川の水は海水であり、また流れが澱むため堀川全体からとてもキツい臭いが漂っていた。そこで寛文3年(1663年)に名古屋市北部を流れる庄内川から名古屋城のお堀に水を引き込み、その水はお堀を経由して堀川に流れ込むようにした。
庄内川から引き込んだ水を堀川へ流すために辰之口水道大樋が作られた。現在の名古屋キャッスルの南に位置し大木が目印としてそびえ立っていたが、平成30年9月に名古屋を襲った台風によりその大木は根元から折れて倒れてしまった。
名古屋キャッスルは名古屋市西区樋の口町にあり、その住所は辰ノ口水道大樋が由来となっているといわれている。
そして天明4年(1784年)には名古屋城の北東を流れる大幸川と堀川がつなげられ堀川の流路が延長された。ちなみに大幸川は現在は暗渠となっているので現在は見ることが出来ない。
その後明治10年(1877年)には庄内川と堀川を繋ぐ黒川が掘削された。それによりほぼ現在の流路となったのである。
昭和40年50年代の高度成長期には堀川の汚れが問題になり、またヘドロが堆積し環境汚染の代名詞となった。臭い川の代名詞となってしまった堀川であったが、その後平成に入り市民主導の堀川のクリーンアップキャンペーンが始まり魚が泳ぐキレイな川に戻り、現在では観光船や屋形船などが運行されるまでになった。納屋橋周辺には飲食店なども立ち並び、市民や観光客にとっても憩いの場となったのである。