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大塩平八郎の乱とは江戸時代の天保8年(1837)に大坂で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱以来200年ぶりの合戦であった。
天保8年天保の大飢饉の影響で大阪でも毎日のように餓死者が150人から200人も出ていたと言われる。そんな中元大坂町奉行東組与力で儒学者の大塩平八郎は私財をなげうって大坂の民衆の救済活動を行う。しかし根本的な解決策を取らない幕府の対応とと米を買い占める豪商に対して怒りを爆発させついに民衆とともに蜂起した。しかし密告者がいて乱はその日のうちに鎮圧された。
しかし大塩平八郎の乱をキッカケに日本各地で幕府への不満が表面化し幕末へと一気に時代がすすんでいく。
天保の飢饉で困窮した大坂の民衆を救済しない大坂町奉行所や米の買い占めを図っていた豪商に対して武装蜂起した大塩平八郎の乱。乱は半日で鎮圧され大塩平八郎と息子は40日間潜伏した後自害した。
しかし大塩平八郎はまだ生きており国内あるいは海外に逃亡したと言う風説が乱の直後から各地で流れていた。また同年アメリカのモリソン号が日本近海に侵入していたことと絡めて「大塩平八郎と黒船が江戸を襲撃する」と言う説が流れた。
大塩親子は火薬を用いて燃え盛る小屋で自決したため遺体の識別が難しい状態だった。黒焦げで顔さえも判別できないほどの状態だった為、遺体は塩漬けにしておいたという。さらに乱の後、磔刑を行わなかったことが生存説に拍車をかけたという。
実は大塩親子はヨーロッパで生きていたと言う説がある。秋篠昭足が大塩親子の逃亡を手助けしたというのだ。大阪市龍淵寺にある秋篠昭足の墓の碑文がその根拠とされる。
碑文にはこう書かれている。「秋篠氏は平八郎の縁者で天保8年の乱の謀議にも参加し乱の後平八郎及びその徒12人とともに河内に逃れその後大塩父子ほか5人は海伝いに天草島に潜伏後、清国に逃れ大塩父子はさらにヨーロッパに渡った。秋篠氏は後に長崎に帰国し医業を行い晩年は伊藤吉平と改名し大坂に戻り84歳で病伏す」
このヨーロッパ逃亡説以外に薩摩への逃亡説などもある。これらの逃亡説がまことしやかに語られたのは幕府の元役人だった大塩平八郎が幕府の直轄地で反乱を起こし、幕府、藩の要人たちに衝撃を起こしそして幕府の体制に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えたというとてもセンセーショナルな出来事だったからに他ならない。