『尾張名古屋は城でもつ』と言われた名古屋城だったが、廃藩置県により天守閣をはじめとする全ての敷地、建物が明治新政府に接収され国有化された。
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慶長15年(1610)徳川家康によって築城された名古屋城。
徳川御三家筆頭である尾張藩最期の藩主、徳川慶勝の尽力により明治維新の戦火を被ることなく維新の黎明をむかえた。
しかし廃藩置県により社会情勢は一変し、旧物破壊が盛んにおこなわれ、名古屋城もその標的となっていた。
旧物破壊の波が各地を襲い、江戸時代に建てられた諸藩の天守閣は旧い時代の象徴として敵対視され破壊されていった。
尾張藩は廃藩置県の前年の明治3年12月に明治新政府に金鯱を天守閣から降ろすことを申し出た。
上の画像は金鯱のない名古屋城をうつした貴重な写真である。
天守閣から金鯱を降ろさせ、金鯱のない名古屋城を庶民に見せつけることによって明治新政府は力を誇示し、皮肉だがそれが旧物破壊の波から天守閣を守ることとなった。
金のしゃちほこといわれ名古屋の人々に愛されるシンボル。
水を呼ぶ想像上の生き物で火除けのまじないとしてしられている。
現在の金シャチは第二次世界大戦の名古屋大空襲で天守閣ごと焼失してしまったので作り直された2代目だ。
初代の金鯱は慶長大判を1940枚分(金320kg)を使って作られた。
現在の貨幣価値に換算すると約11億円に相当する。
明治4年2月に金鯱引きおろしの内命が明治新政府よりあった。
明治4年4月7日南方雌鯱が、4月14日北方雄鯱が降ろされ別々に車台にのせられた。
4月16日には熱田港より蒸気船知多丸によって東京へと運ばれ宮内庁へ献納された。
宮内省に納められたのち明治5年3月東京湯島聖堂での日本最初の博覧会での目玉として出品され大いに話題となった。
その後、全国各地の博覧会で展示された。
さらには墺国(オーストリア)ウィーンで開かれた万国大博覧会にも出品され世界を驚かせた。
金鯱のない名古屋城はどこか気の抜けた無意味な存在のように思えた。
地元名古屋では金鯱を名古屋城天守閣へ戻すための官民の呼びかけが次第に大きくなっていった。
世間でも名物保存の動きがではじめたころである。
そうした動きの中、ついに明治11年に名古屋城の城頭に金鯱が戻ってきた。
短い間ではあったが名古屋城天守閣には金鯱が鎮座していない時期が確かにあった。