明治時代、名古屋の街は速さと学びで進化しましたが、その変化を支えた庶民の暮らしはどのようなものだったのでしょうか。明治5年(1872年)から明治42年(1909年)にかけての技術革新を、当時の人口と経済の視点から再構成します。
📊 名古屋の成長と庶民の経済事情
明治時代後期、名古屋は日本の大都市へと成長しました。
• 人口の増加: 明治40年代初頭(1907年頃)の名古屋市の人口は約37万人に達しており、商業・産業の中心地として急速に発展していました。
• 庶民の平均的な賃金: この頃の一般の職工や日雇い労働者の平均年収は、年間およそ150円〜250円程度と推定されます(日給に換算すると50銭〜1円程度)。中西万蔵氏のような銀行支店長の収入は、これとは比較にならない高額でした。
• 物価の目安(米価): 明治40年代の米の値段は、概ね1石(約150kg)あたり10円〜15円程度でした。つまり、庶民は年間収入の大部分を食費に費やしていたことが分かります。
このような経済状況の中、名古屋の人々は新しい技術と文化をどのように受け入れ、生活を築いていたのでしょうか。
Ⅰ. 明治5年:人力と知識が切り開いた「新しい名古屋」の夜明け
庶民の年収が200円にも満たない時代、新しい時代への希望が何よりも重要でした。
💨 韋駄天俥人「金時」の超人的スピード
人力車夫の金時は、一日36里(約141.6km)を走破しました。金時のような超人的な速さは、高額な運賃を生み出し、当時の庶民の収入水準から見れば、彼のような韋駄天俥人は非常に稼ぎの良い存在だったと推測されます。
🍹 文明開化の味、ラムネの衝撃
今枝庄兵衛が本町で売り出したラムネは、当時の収入から考えると決して安くはありませんでしたが、市民はわずかなお金を払ってでも**「文明開化の味」**という新しい体験を求めました。
🎓 義校開校と未来への投資
義校の開校は、米が1石15円という生活の中で、子供に**「知識」という最大の財産**を与える機会でした。教育こそが貧困を抜け出す唯一の道であり、庶民の切実な願いを象徴していました。
Ⅱ. 明治42年:機械の力が「速さ」を個人の手に
名古屋の人口が37万人に達し、街が成熟した明治42年。
🚗 東海地方初の自家用車
北浜銀行名古屋支店長の中西万蔵氏が自家用車を購入したとき、その自動車の価格は、庶民の平均年収の数倍から数十倍にもなる、まさに桁外れの贅沢品でした。この自家用車は、当時の富裕層と庶民との間の経済的な格差が、交通手段という形で明確に現れた瞬間を示しています。
金時が人力で切り開いた速さへの意識は、技術の進歩とともに、富を持つ者だけが享受できる**「機械の自由」**へと変わっていったのです。
この37年間の名古屋は、人口増加と経済発展の中で、人力の時代から機械の時代へと移行し、庶民は厳しい物価と賃金の中で、希望を「学び」に託しながら、力強く生きていたのです。