愛知県、特に名古屋の地には、徳川家康の九男である徳川義直が治めた尾張藩が育んだ独自の文化と武術が数多く残されています。
その中でも、「世界最強の槍術」とも称され、400年以上経った今なお継承されているのが**津田貫流(つだかんりゅう)**です。この流派の核となるのが、尾張藩でしか許されなかった秘伝の武器、**管槍(くだやり)**でした。
この記事では、津田貫流が誕生した背景、開祖・津田信之と師・佐分忠村の壮大な系譜、そして尾張藩内での高い地位に迫ります。
💡 管槍とは何か?常識を覆した槍の構造
津田貫流の技術の根幹は、その特異な武器である管槍にあります。
一般的な槍(直槍)が柄を両手でしっかり握るのに対し、管槍は槍の柄に鉄や銅で作られた長さ約10cmのゆるい管を通します。
使い方はシンプルかつ革新的です。
1. 利き手とは逆の手で、この管を握って支点にする。
2. 利き手は柄を軽く持ち、管の中を槍が滑るように高速で突き出す。
この機構により、槍は驚異的なスピードで繰り出され、直槍使いを圧倒する機動力を持ちました。一説には、戦国武将の**大谷吉継(刑部)**が、病で不自由になった手でも最大限の力を発揮するために考案したとも伝えられています。
👨🏫 津田貫流の礎:師・佐分忠村の壮大な系譜
津田貫流の開祖は津田信之ですが、彼の槍術の基盤を作ったのは師である佐分丹右衛門忠村です。佐分流槍術の開祖でもある忠村の背景には、尾張の歴史そのものが流れています。
1. 虎尾孫兵衛と「佐分流」の誕生
佐分忠村は、一流の管槍使いである虎尾孫兵衛三安に学びました。忠村は、この管槍術を尾張藩内に広め、藩祖・徳川義直の槍術指南役に就任することで、「佐分流」を確立しました。
2. 刀槍両刀使いの教え
佐分流の大きな特徴は、「刀と槍の両刀使いこそが最強」という教えです。忠村は弟子たちに槍術だけでなく、新陰流や円明流といった剣術も並行して修練させ、藩士の総合的な武術能力を高めました。
3. 名門「佐分利氏」の誇りと改名
佐分忠村の家系は、もともと佐分利氏という、平安時代から続く一宮の名門豪族でした。
• 彼らは一宮名門四家の一つであり、真清田神社の神主を務めた者も輩出する由緒ある家柄です。
• しかし、忠村の父である佐分利忠次の時代、藩主・徳川義直(幼名:義利)の名に遠慮し、通字である「利」を外して「佐分」と改名。この配慮が、尾張藩士としての地位を確固たるものにしました。
👑 藩の威信をかけた「御留流」としての地位
津田信之は、虎尾流と佐分流の技術を融合・発展させ、独自の境地に至り津田貫流を編み出します。この津田貫流が尾張藩内で占めた立場は、非常に高いものでした。
藩主直属の指南役
佐分忠村も津田信之も、藩主の槍術指南役という重要な専門職に就きました。これは、藩主の個人的な警護や、藩の軍事力を支える武術のエキスパート集団のトップを意味します。彼らは藩の信頼を一身に集め、高い俸禄と地位を享受しました。
秘中の秘、「御留流」
津田貫流(尾張貫流)は、その極めて実戦的な技術ゆえに、藩外への流出を厳しく禁じられた**「御留流(おとめりゅう)」**として扱われました。
これは、津田貫流の槍術が、尾張藩の戦闘力と藩の威信を象徴する秘中の秘であり、他藩に知られてはならない技術であったことを示しています。
🇯🇵 現代に繋がる最強の槍術
佐分忠村から津田信之へ受け継がれ、独自の発展を遂げた津田貫流は、愛知県を中心に途絶えることなく現代まで伝承されています。
その教えと技術は、今も各地の古武道大会(演武会)で披露され、400年前の尾張藩士たちが追い求めた「最強の槍」の姿を現代に示し続けているのです。
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