日本の山野を風のように移動し、独自の生活を営んでいた「サンカ(山窩)」。彼らは近代社会の枠外で生き続けた「山の民」ですが、その起源も、消滅の過程も、多くの謎に包まれています。サンカの出自を巡る2大学説から、昭和に姿を消した「最後のサンカ」の具体的な目撃情報までを深掘りします。
サンカ起源論の対立:古代の系譜か、近世の離脱民か
サンカの出自については、大きく分けて二つの学術的な見解が対立しています。
1. 古代からの系譜説(田中勝也などの研究)
• 主な主張: サンカを単なる近世の難民ではなく、古代日本の特定の集団の子孫と結びつけて捉えます。
• 根拠: 田中勝也氏の『サンカ研究』などがこの立場で、サンカの伝承や習俗が、『記紀』や『上記(うえつふみ)』に記された古代の遊行民や職能集団の系譜に繋がる可能性を論じます。独自の「サンカ言葉」や婚姻、埋葬の習俗に古代的な要素が残ると指摘します。
2. 近世の零落民・離脱民説(有力な学説)
• 主な主張: 現在最も支持されており、サンカが江戸時代後期から明治時代にかけて形成されたという見解です。
• 背景: 厳しい身分制度や飢饉(天保の大飢饉など)、明治維新後の急激な社会変革の中で、生活基盤を失った人々(零落民、無宿人)が山間部に逃げ込み、漂泊生活を始めました。
• 生業と社会性: 彼らは戸籍を持たない「無籍者」として、主に箕や籠などの竹細工を行商することで生き延びました。官憲からは「山窩」として警戒され、一般社会からは差別と恐れの対象となりました。
「最後のサンカ」の記録:昭和30年代の具体的な目撃情報
近代化の波、特に工業製品の普及や戸籍・義務教育制度の徹底により、伝統的な漂泊生活は**昭和30年代(1955年〜1964年頃)**に終焉を迎えました。その直前に確認された「最後のサンカ」の姿は、日本の近現代史の影を映し出しています。
埼玉県 荒川支流周辺での目撃
• 時期: 昭和20年代から30年代初頭にかけて、集団での生活が確認されています。
• 生活実態: 山中の河原などにセブリと呼ばれる粗末な仮小屋を設営し、自給自足に近い生活を送っていました。
• 目撃された姿: 一部の記録では、「ラーザン部落」とも呼ばれた集落で、女性が上半身裸であったり、子どもたちが山猿のように山中を駆け回るなど、極めて困窮した生活様式であったことが記録されています。三角寛の著作にも登場する「松島兄妹」などの一族は、この荒川族サンカの末裔とされます。
静岡県 三島市周辺での目撃
• 時期: こちらも昭和30年代頃の記録が残っています。
• 生活実態: 山林や河原で、地面を掘って暮らす穴居生活を送っている姿が確認されています。
• 生業: 主に竹細工の行商を生業としていましたが、定住社会との接触は極力避けて孤立していました。
これらの「最後のサンカ」は、飢餓や差別に耐えながらも、近代社会の波に逆らって**「定住しない自由」**を貫こうとした人々の姿でした。
昭和50年代以降、彼らの多くは社会に同化し、サンカは**「歴史上の存在」**となりました。彼らの消滅は、日本の伝統的な漂泊文化の終焉を意味しています。