木地師(きじし)は、ろくろ(轆轤)を用いて椀や盆などの円形木製品(挽物)の素地を作る職人のことです。彼らは日本の工芸史において極めて特殊な存在であり、その文化は日本の歴史の裏側、山深い場所で育まれました。
1. 姓に秘められた特権:木地師という名の由来
木地師の歴史は、その特異な姓と、それにまつわる伝説的な起源に深く結びついています。
• 平安時代の起源: 木地師の技術は、平安時代前期に、悲運の皇子とされる**惟喬親王(これたかしんのう)**が近江国(現在の滋賀県小椋谷)に隠棲した際、ろくろの技術を家臣に伝授したことに始まるとされます。
• 特別な姓の許与: 親王から技術を伝授された家臣の子孫には、**「大蔵(おおくら)」や「小椋(おぐら)」**といった姓を名乗ることが許されました。
• 「許可証」としての姓: この姓は、単なる家名ではなく、江戸時代まで続いた**「全国の山林に自由に入り、木を伐採する」という、極めて特殊な特権の証でした。この姓を名乗ることは、彼らの生業と移動を可能にする身分証明書・入山許可証**の役割を果たしました。
2. 山に生き、山を渡る:木地師の漂泊の暮らし
木地師の最も特徴的な活動は、良質な木材を求めて山々を移動し続ける「山渡り」という生活様式です。
• 漂泊の民: 彼らは、椀や盆の材料となるブナ、トチ、ケヤキなどの広葉樹を求め、家族や小集団で山中を移動する**「漂泊の民」**でした。
• 山渡り: 一つの山で良材を伐採し尽くすと、次の山へ移住する「山渡り」を、数年から数十年単位で行っていました。このため、彼らの居住地は、麓の人里から隔離された山奥の集落や、簡素な掘立小屋が拠点でした。
• 技術の維持: 移動先でも自作のろくろ(綱引きろくろなど)を使い、目と感覚だけで精巧な円形の木地を削り出す高度な技術を一貫して守り続けました。
3. 独自の「氏子狩」と流通ネットワーク
山奥で生産された木地は、独自のルートで全国に流通し、重要な記録として歴史に残されています。
• 広域流通: 彼らが持つ「全国往来の特権」を示す**往来手形(免許状)**により、関所を自由に通過できたため、通常の商人よりも広範囲で商品を流通させることができました。
• 里での販売: 山中で挽き上げた木地(椀や盆の素地)は、麓の村の定期市や寺社の縁日に持ち込まれ、直接販売されました。現金だけでなく、米や塩などの生活必需品との物々交換も行われました。
• 漆器産地への供給: 彼らの木地は、会津塗りや木曽漆器など、全国の主要な漆器産地の問屋や塗師(ぬし)に運ばれ、漆器製造の原料として流通し、日本の工芸産業の基盤を支えました。
• 歴史の証拠:「氏子狩帳」: 江戸時代、発祥地(小椋谷)の公文所の役人が、全国の木地師のもとを巡回して資金を集めた**「氏子狩(うじこがり)」の記録が残されています。この『氏子狩帳』には、木地師の氏名や山中の居住地**が詳細に記されており、当時の生活実態を知るための極めて貴重な歴史的史料となっています。
4. 時代とともに変化した木地師の生業
木地師の生活は、国の制度の変化とともに大きく変わりました。
• 明治維新で終焉: 明治時代に入り、山林の所有権が確定し、移動の自由が失われると、「山渡り」の生活はほぼ終焉を迎えました。
• 定住と産業化: 木地師たちは、良材が確保できる長野県木曽地域(南木曽ろくろ細工)や岐阜県中津川市など、特定の地域に定住し、その技術は地域伝統工芸へと姿を変えました。
• 戦前・戦後の状況: 戦前までは、木製品の高い需要に支えられて多くの職人が存在しましたが、戦後、特に昭和30年代以降は陶磁器やプラスチックの普及により需要が激減し、職人の数は大きく減少しました。
木地師が山中で培った卓越したろくろ技術と独自の文化は、日本のものづくりの歴史における、唯一無二の遺産なのです。