「生きた化石」の異名を持つシーラカンスは、その登場から約3億7千万年という途方もない時間を生き抜き、私たち人類が誕生する遥か昔から姿をほとんど変えていません。この深海の王者の神秘的な姿を、水族館の大きな水槽で優雅に泳ぐ様子として見ることは、残念ながら叶いません。その背景には、彼らが選んだ特殊な生息環境と、国際社会が定める厳格な保護規制の二つの大きな理由があります。
1. 「時の冷蔵庫」である深海の特殊な生息地
シーラカンスがなぜ絶滅を免れ、この地球の歴史を生き抜けたのか。その鍵は彼らの生息環境にあります。
• 主な生息地: 現在生息が確認されているのは、アフリカ大陸のコモロ諸島沖や南アフリカ、そしてアジアのインドネシア近海など、ごく限られたエリアの深海域です。
• 生息水深と環境: 彼らは主に水深150mから700mという、光がほとんど届かない深海に棲んでいます。この環境は「時の冷蔵庫」とも呼ばれるほど、水温や水圧が極めて安定しており、進化を促すような大きな環境変化がありませんでした。
• 生態: 日中は水深の深い岩礁の洞穴などで群れで静かに過ごし、夜になると比較的浅い水深に浮上して餌を探す、という行動パターンが潜水調査などで確認されています。
• 飼育の壁: この低水温・高水圧・安定した環境を、人工の水槽内で正確に再現し、長期的に維持することは、現在の水族館の技術を持ってしても非常に困難です。仮に捕獲に成功したとしても、環境の変化は彼らにとって致命傷となり、短時間で命を落としてしまうと考えられています。
2. 国際的な規制:シーラカンスを守る「ワシントン条約」
シーラカンスが生きた状態で水族館に展示されない最大の理由は、その絶滅リスクの高さから設けられた国際的な保護規制にあります。
• ワシントン条約(CITES): シーラカンスは「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」、通称ワシントン条約の附属書Iにリストアップされています。
• 商業目的の全面禁止: 附属書Iに掲載されている種は、商業目的の国際取引が原則として全て禁止されます。水族館の展示は商業活動と見なされるため、新たな個体を捕獲・購入して展示することは許されません。
• 国内法の制限: 日本では国内法である種の保存法に基づき、国際希少野生動植物種(シーラカンスを含む)の国内での取引(売買や譲渡)も厳しく制限されています。この規制は、生きた個体だけでなく、剥製や冷凍標本、体の器官といった加工品にまで及びます。
• 学術目的の例外: 絶滅のおそれを減らすための学術研究や種の保存に資する目的に限り、関係省庁の許可を得て取引が行われることがありますが、この場合も非常に厳格な審査と管理が求められます。
3. 私たちが「生きた化石」に会える場所
こうした厳しい規制と飼育の困難さのため、世界中どこにも生きたシーラカンスを展示している水族館はありません。しかし、その貴重な姿を標本として見学できる場所があります。
• 沼津港深海水族館 シーラカンス・ミュージアム(静岡県):
• ここは、冷凍保存されたシーラカンスの個体を展示する、世界で唯一の施設です。
• 展示されている冷凍標本は、規制が厳格化される前の1981年に日本の調査隊が学術調査で捕獲したもので、非常に歴史的価値のあるものです。
• 冷凍個体のほか、複数の剥製標本や映像資料を通じて、シーラカンスの神秘に触れることができます。
このように、シーラカンスの展示は、単なる「魚」の展示ではなく、地球の歴史と国際的な保護努力の結晶として、私たちに見学の機会が与えられているのです。