戦前の日本で発行された地図には、軍事上の機密保持のため、意図的に偽装されたり消されたりした場所が存在しました。これが「戦時改描(せんじかいびょう)」と呼ばれる情報統制です。
この措置は、国家の象徴である皇室関連施設を含む広範な対象に適用されましたが、敵国であるアメリカ軍からは無意味なものとして軽視されていました。
Ⅰ. 戦時改描とは?:軍事と国家の象徴を守る政策
戦時改描とは、**日中戦争が本格化した1937年(昭和12年)**頃から、旧陸地測量部が一般向け地形図に対し、重要施設の位置や詳細を隠蔽するために行った地図の改変です。
• 目的: 敵国による爆撃の標的特定を避け、国土防衛上の機密を保持すること。
• 主体: 旧日本陸軍の指示に基づき、地図作成機関である旧陸地測量部が組織的に実行しました。
Ⅱ. 皇室関連施設の特別な扱い:機密性と象徴性
戦時改描の対象施設の中でも、皇室関連施設は軍事施設と同等、あるいはそれ以上に厳重な情報統制の対象とされました。
1. 主な対象と目的
• 宮城(皇居)、赤坂御用地、新宿御苑などの広大な皇室施設が対象となりました。
• これは、皇室が国家の最高権威・象徴であり、その施設が攻撃を受けることを防ぐための措置でした。
2. 特有の改描手法
• 「白抜き」による情報削除: 敷地の大部分を地図記号や詳細な地物を描かない**空白(白抜き)**とすることで、建物の配置や内部構造を把握できないようにしました。
• 「公園」への偽装: 広大な御用地の一部は、単に**「公園」や「緑地」**のように描き換えられ、攻撃目標としての重要度を低く見せかける効果が狙われました。
Ⅲ. アメリカ軍の評価:軽視された「子供だまし」の欺瞞
日本が国力を投じて行った戦時改描ですが、敵国であるアメリカ軍からはその効果をほとんど認められていませんでした。
📌 軽視されたエピソード
アメリカ軍が戦時改描を軽視していた最大の理由は、航空偵察(空中写真)技術の圧倒的な優位性にありました。
• 空中写真による看破: 1940年代には、アメリカ軍は日本全土の詳細な空中写真を継続的に撮影していました。日本の地図上で住宅地として偽装された軍事施設や、芝生とされた浄水場であっても、空中写真で見ればその真の目的や規模は容易に判明しました。
• 情報の確認手段: アメリカ軍にとって、日本の市販地図はあくまで一つの参考資料に過ぎず、空中写真、捕虜の尋問、そして改描以前に入手した旧版地図を組み合わせることで、常に正確な情報を把握していました。
• 「無意味」な作業: 日本が地図に費やした手間や資源は、アメリカ軍の視点から見れば**「子供だましのような情報統制」**であり、軍事的な優位性を覆すことはできませんでした。戦後、日本の地図が虚偽情報に満ちていたことが判明した際も、アメリカ軍はその無意味さを再認識するに留まりました。
Ⅳ. 戦時改描の結末と現代の情報統制
戦時改描は、敵の攻撃を防ぐ効果は限定的であった一方で、国内の行政・復興作業に大きな混乱をもたらしました。終戦後、日本の地理調査所はGHQ(連合国軍総司令部)の指示の下、米軍が撮影した空中写真を利用して地図を修正・再作成するという皮肉な結末を迎えました。
現代の「地図の検閲」事例
• デジタル地図のブラー処理: 現在も、Google マップなどのサービスでは、各国の要請により、軍事基地や政府中枢施設の衛星画像が**低解像度化(モザイク、ブラー処理)**されており、これが現代の「情報隠蔽」の主流な形です。
• 政治的主張の強制: 一部の国(例:中国)では、領土問題に関する地図の表記について、政府の政治的主張に一致させるよう強制的な検閲が行われています。
戦時改描は歴史的な出来事ですが、**「国家権力による情報の操作」**という本質は、デジタル時代の今も、私たちの見ている地図の中に深く存在し続けているのです。