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名古屋市の前身の名古屋区長だった 1883(明治16) 年、政府が東京・京都間に計画していた幹線鉄道の案に対し、異議を唱えました。当時、政府は、海に近く敵から攻撃を受ける危険性が高いという理由で、東海道を回避し中山道を通したいと考えていました。 しかし、緑在は木曽の山林で役人をしていた関係で中山道への鉄道建設は難しい現実を知っていました。再調査の結果、1886(明治19) 年、「東海道案」に変更されることになりました。そして名古屋を経由する「東海道線」の開通にこぎつけます。名古屋駅の建設によって広小路通が整備されるなど、名古屋の町の開発は大きく進みました。
吉田禄在は、名古屋区長として、幹線鉄道建設に対する異議申し立てだけでなく、多くの事業に取り組んで名古屋市の発展に貢献しました。彼の尽力によって、名古屋市は大きな飛躍を遂げることになりました。
戸籍の整備においては、国内に先駆けて「戸籍取調局」を設置し、戸籍の整備を進めました。また、道路・橋の改修にも力を入れ、名古屋市内の道路を整備し、橋を架け替えることで交通の便を改善しました。これによって、名古屋市民の生活が格段に向上しました。
さらに、名古屋城天守の金鯱の復旧と保存にも尽力しました。金鯱は、名古屋城天守の屋根に取り付けられた鯱の形をした装飾品で、名古屋のシンボルの一つです。しかし、長年の風雨により傷みが進んでいました。吉田禄在は、金鯱の修復と保存を決断し、名古屋の文化遺産を守ることに成功しました。
米商会所の設立に関しては、明治時代における国際貿易を担う重要な機関であり、名古屋市の経済発展に大きな役割を果たしました。また、第十一国立銀行の開設によって、名古屋市内における金融業界の発展に寄与しました。
吉田禄在は、名古屋市の発展に尽力し、その功績は今なお讃えられています。名古屋市にとって、彼は不朽の偉人であり、彼の業績は名古屋市の発展の礎となっています。
明治5年に横浜新橋間に日本初の鉄道が開業しました。その後、東京と京都を結ぶ基幹鉄道の建設が計画されましたが、実現には多くの困難がありました。明治政府は明治16年に、東海道線ではなく「中山道幹線」を基幹鉄道として建設することを決定しました。公式の理由は内陸部の開発優先や海上輸送との競合ですが、鉄道の軍事的な利用も考慮され、外国からの攻撃に対して海岸線は防衛上不利だったためです。
中山道幹線は、新橋から高崎、松本、中津川、岐阜、米原を経由して京都に至るルートでした。このルートには名古屋が含まれておらず、名古屋区長(名古屋市長の前身)の吉田禄在はこれに異議を唱えました。吉田は幕末に尾張藩で木曽の材木管理を任されていたため、木曽山のことを熟知しており、恵那山付近の地図を自ら持参して鉄道建設の責任者である井上勝に中山道ルートの困難さを訴えました。
吉田の努力が実り、再度測量が行われた結果、中山道幹線は計画よりも建設費がかさみ、工期も長く、開業後も運転速度が遅くなるなどの問題が次々と判明しました。東海道の調査と比較した結果、中山道幹線から東海道線への変更が認められるこことになりました。
江戸時代の名古屋は、お城の南側に「碁盤割」と呼ばれる町並みがあり、町の中心地でした。しかし、当時の名古屋駅建設予定地と栄地区との交通アクセスが非常に不便でした。そこで、吉田は広小路通りの延長工事を決定しました。しかし、膨大な建設費は区費だけではまかなえず、大変な反対もありましたが、多額の募金を集めて費用を捻出し、広小路通りの延長工事を決行しました。こうして明治19年に、田んぼと沼地だった笹島付近に名古屋駅が誕生しました。当時の駅は「笹島停車場」とも言われ、名古屋の発展の礎となったと言われています。