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源為朝は、幼い頃より剛勇の聞こえ高く、特に弓矢の名手として知られている人物です。彼は平安時代後期の武将であり、保元の乱では崇徳上皇方に味方して戦いましたが、戦に敗れ、伊豆大島へ流されました。
伊豆大島は当時、人口がまばらで無法地帯となっており、流罪になった武士たちが身を寄せる場所でした。ところが、流された先の伊豆大島で暴れて島を事実上支配してしまったので、朝廷の追討を受け、最後は自害しました。
一方で、「島で生まれた為朝の子が家人の手引きで島を脱出し、尾張国の古渡に渡った」との一文が闇之森八幡社の社伝に残されています。この為朝の子が尾頭次郎義次と伝わっています。
義次は、父親の為朝同様、小さい頃から力が強かったと言われています。成長してからは、武術の名人として名を轟かせ、多くの人々から尊敬を受けました。その噂は、当時の土御門天皇の耳にも入り、義次は天皇から紀州の「鬼党」と呼ばれる盗賊の討伐を命じられました。
当時、鬼党は南紀の山間地帯に拠点を持ち、人々を脅かしていました。しかし、義次はその猛威を恐れず、精鋭を率いて鬼党の拠点に乗り込みました。激戦の末、義次は見事鬼党を退治し、大将の首を持ち帰ったと言われています。
その功績が天皇の耳に入り、義次は報奨として古渡一帯(現在の中区から熱田区にかけて)の領地を与えられました。義次はこの地で領主として治め、農業の発展や治水事業の充実などに尽力しました。また、義次は文化人でもあり、和歌や茶道にも精通していたとされています。
尾頭次郎義次の功績は後世にも伝えられ、彼にちなんだ地名や社名が残されています。今もこの地域に残っている尾頭町、尾頭橋、尾頭神社などの地名や社名は、尾頭次郎義次にちなんだものです。義次には広大な領地とともに朝廷から「鬼頭」姓も与えられました。
このように、義次が与えられた「鬼頭」姓には彼の生い立ちや実績など、様々な要素が含まれています。また、彼の功績は、地域のみならず、姓を名乗る人々にも広く認知され、現在でも多くの人が「鬼頭」姓を名乗っています。
鬼頭さんは、全国に2万人ほどいるようですが、愛知県にはその70%に当たる1万4000人が住んでいます。鬼滅の刃の声優としても有名な鬼頭明里さんも名古屋市出身なのでそのうちの1人だといえるでしょう。このように愛知県に多い鬼頭姓のルーツもそのほとんどが尾頭次郎義次に行き当たるはずです。
さらに、義次が領地を与えられた古渡一帯は、彼の子孫たちによって繁栄を続け、江戸時代には、現在の名古屋市中心部に相当する地域でありながら、大きな町人文化を形成していました。その後、明治時代に入り、名古屋市が開かれると、古渡一帯も市街地として発展していきました。
現在でも、尾頭神社をはじめとする古渡一帯の歴史や文化は、名古屋市の中心部にありながら伝わっています。
このブログは、尾頭次郎義次の生涯や彼が与えた影響についての解説でした。義次は尾張国古渡にやってきて、武術の名人として知られるようになり、紀州の鬼党を討伐し、報奨として広大な領地を与えられました。その後、「鬼頭」姓を与えられ、この地域に多くの鬼頭姓が残るようになったとされています。彼の生涯と伝説は、地元では今でも語り継がれており、尾頭橋や尾頭神社などの地名や社名にも残っています。彼の功績や人物像は、地元だけでなく、全国的にも広く知られるようになりました。