花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ
慶長20年(1615)6月3日、大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込みながら、武運が尽きた真田幸村は討取られてしまいました
しかし大坂夏の陣で豊臣家が滅んだあとに京のみやこの庶民の間で流行したわらべ唄が冒頭のものだ
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この歌は焼け落ちていく大阪城内で自害したはずの豊臣秀頼を真田幸村が密かに脱出させ、鹿児島まで逃げ延びたことを意味している
豊臣家が力を持っていた関西圏では豊臣家の再興を願う庶民が大勢いたに違いない
万城目学の小説が原作の映画『プリンセス・トヨトミ』にも出てくるように大阪の人たちは徳川家よりも豊臣家に親近感を抱いている
『プリンセス・トヨトミ』でも中井貴一演じる真田家の末裔であるお好み焼き屋の大将が豊臣家末裔の少女を見守るという設定であった
慶長19年(1614)、豊臣家滅亡を目論む徳川家康は、かの有名な「方広寺鐘銘事件」で言いがかりを付け、大坂攻めを開始
大坂冬の陣の始まりであった
籠城戦をとった豊臣方だが、真田信繁が大河ドラマにもなった出城「真田丸」を築いたことで防備は完璧
攻めあぐねた家康は大砲で威嚇するなどしてなんとか講和に持ち込み「大坂城の堀を埋める」という条件を豊臣方に飲ませ休戦に持ち込んだ
翌年、その大坂城に再び家康が襲いかかった
それが大坂夏の陣である
堀を埋められた大坂城は丸裸も同然であり、籠城が不可能になった豊臣方は、城を打って出て徳川方を迎え撃ったが敗色濃厚であった
そんななか、豊臣秀頼は家臣真田家のものと焼け落ちていく大阪城内で自害を選んだといわれている
しかし討ち取られたと伝えられている真田幸村は一族とともに若き豊臣秀頼を連れて大阪城を脱出し、一路九州鹿児島へと逃げ延びることに成功
そこで真田の名を捨て、真江田【マエダ】と名を変え豊臣家再興の時期をうかがっていた
鹿児島県南九州市頴娃町別府では真田氏の後裔が擬装するため「江」を挿入したと伝わっている
江戸時代初期に突如この地域に真江田家が興ったことがタイミング的にも真田家の末裔である説の信憑性を高めている
秀頼には国松という8才になる息子がいた
その国松も明石全登に連れられ大阪城を脱出し薩摩に逃げ延びることができたと伝わる
日出藩には木下延俊という豊臣秀吉の縁者がいたのでそこで匿われて生き延びたと伝わり、現代までも木下家は繋がっているという
現当主は東京に住んでいるとの話もある