日吉神社では猿は神の使いであると伝えられている。近くの清洲町朝日出身の大政所が神社内にある子産石に祈願して産まれたのが後の豊臣秀吉である。
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令和になってから日吉神社では季節ごとの限定御朱印をはじめている。
通常御朱印に加え、毎月8日の薬師如来様の御朱印は以前からあったが、季節ごとの限定御朱印や月ごとの月替わり御朱印など種類が増えた。
愛知県清須市清洲2272
宝亀2年(西暦771年)の疫病大流行のときに、疫病除去の氏神としたのが発祥。
大同2年(807年)橘逸勢が社殿を建立、神仏習合の広まりにより山王宮と称されるようになる。
山王信仰といえば猿を神の使いとしてあがめ、その使いの猿を日吉と呼び大事にしてきた。
ここ山王宮日吉神社は当時より本来の山王宮であるといわれている。
天正8年(1580年)に当時の清洲城代である織田信張公によって、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社21社を勧請し現在に至る。
豊臣秀吉の生母である大政所は清洲の出身であり、日吉神社に祈願して産まれた神の子が豊臣秀吉である。
日吉神社にちなんで幼名を日吉丸という。
木下藤吉郎のあだ名である『サル』は顔が似ていたからではなく、日吉が神の使いである猿をあらわす名前だったからではないだろうか。
大政所が祈願した『子産岩』が今も日吉神社の一角にある。
その子産岩は触ると子どもを授かると言い伝えられている。
尾張を治めていたときに日吉神社前で行われた火起請という裁判に立ち会った。
織田信長の家臣の伊藤蘭丸は本能寺の変ののち、商人になり日吉神社近くで絹布商を営んだ。
慶長8年には大きな猿の絵馬を奉納した。
その絵馬の複製が今も社殿に掲げられている。
伊藤蘭丸の子孫である伊藤家はその後名古屋で大商人となり現在も続く松坂屋を営んでいる。
幼名をいただいた豊臣秀吉の妻ねね(北政所)は三十六歌仙の歌仙額、神宮寺の薬師堂などを造営寄進した。
太閤豊臣秀吉が病に倒れたとき、時の後陽成天皇が勅使を日吉神社へと遣わし病気平癒を願われたとも記録されている。
小牧長久手の戦いで織田信雄の軍勢とともに清洲に野営をした。
その際、軍兵たちが日吉神社を焼き払ってしまった。
戦いの後、織田信雄が神社の本殿、末社を造営した。
また、徳川家康の四男松平忠吉が清洲城主となり日吉神社を大々的に修復造営をし社領を寄進し保護した。
以上のように、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国時代の超有名人である尾張三英傑とのつながりがとても深い日吉神社である。
そのため、昔から清洲城の総鎮守神として祀られていたそうだ。
毎月8日には通常の御朱印以外に限定御朱印である薬師如来の御朱印を拝受することができる。
宮司の達筆な直書きの御朱印はとても素晴らしいものである。
畳8畳ほどの大きさの猿の巨大絵馬があり圧巻である。
また神社内のいたるところに猿の石像があり神の使いとして崇められている。
厄を取りサル!福を招く!というご利益があります。
そして御朱印にはかわいいサルのスタンプが押されていてとても愛らしい感じになっています。
日吉神社の境内に入るととても厳かな気分になれる。
やはり三英傑も関わっていたほどの古社であるということもあるが、歴史ある昔ながらの森の中の神社という雰囲気が残っているのがとても素晴らしいと感じる。
神社となりに併設する墓地があり、そこに大きな駐車場があるので車で行っても困ることはない。